74. 樹雨

文字数 545文字

 名前の無い森は、霧に満ちていました。

 彼女は恐る恐る森を進みます。
 (ひづめ)が根に引っ掛からないように、慎重に足元を確かめます。
 鼻先に樹雨(きさめ)(あた)り、全身の筋肉が収縮し反発します。

 ああ、驚いた!

 何かに(おび)えて逃げてきたはずですが、名前が思い出せません。

「だって……縛ろうとするから……」

 それは、彼女たちにとって、天敵です。鋭い牙も鉤爪もありませんが、言葉巧みに誘惑します。歯ごたえのある樹皮があるとか、渇き潤す命の水があるとか言って、罠にかけるのです。友達の……が、捕まって、東の……に連れていかれて、二度と戻ってきませんでした。

「こんにちは」

 胴体から手足が四本伸びています。顔は平べったいです。急所の心臓を(さら)すように二本足で立ち、胸を前に突き出しています。
 なんて無防備なんでしょう。

 彼女は小首を傾げました。
「君は誰?」
「わからないの。あなたは?」
「さあ?」

 仕方ありません。仲良く森を出るとしましょう。
 彼女は彼女の首に優しく腕を巻きました。彼女は顔をその腕に擦り寄せました。心地よいです。互いに互いに何者かわからなければ、平和です。

 敵でも、恋人でも、ステークホルダーでも、ないのですから。
 過去も未来にも縛られず、隣にいられるのですから。

 霧けぶる樹雨の森では、誰だって平等です。
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