十九(五)

文字数 1,534文字

 指揮所のリョウに寄せられる情報は、玉石(ぎょくせき)混淆(こんこう)だ。「こういう時こそ、不確かな情報や憶測、(にせ)情報、あるいは誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)から、事実と真実を見出すことが大事だ」、そう考えたところで、リョウはハッとした。「偽情報こそ、ときには、人の心を映すのではないか!」
 浮浪者が貴族を襲う、ソグド商人が街を焼き払う、祆教(けんきょう)寺院の僧が井戸に毒を入れる……、いずれも未だ起ってはいないことでも、人々の心の闇は、それを事実に仕立て上げてしまう。恨みを買ったソグド商人街や祆教(けんきょう)寺院が暴徒に襲われるのではないか。
 リョウは、進にすぐ西市の「青海邸」に戻って、暴動から街を守り、いざとなったら(てい)たちを脱出させるように頼んだ。続いてリョウは、キョルクを(かくま)っている醴泉(れいせん)坊の祆教(けんきょう)寺院に向かった。
「しまった!」
 リョウが近づいたとき、寺を囲んだ群衆は、寺に向かって、てんでに石を投げつけていた。寺の中に入り込んだ一団が、僧侶を数人、袋叩きにしている。誰かが指揮するのでもなく、ただ井戸へ毒を入れたという真偽の不確かな情報に怒った民衆が、騒ぎ立てているようだ。中には仏教僧の姿さえ見えた。
 リョウは自分の服装を見直した。今は、胡服ではなく、漢人の石工の姿だ。「これなら大丈夫」と、リョウは頭を投石から守りながら、群衆を掻き分けて門の中に入った。キョルクがいる隠し部屋の扉は閉まっていたが、声をかけると中から細く開き、見覚えのあるキョルクの従者が戸を開けた。
「キョルク、このままでは火をかけられて、逃げ道もなくなる。脱出するぞ」
 そう言って二人を連れ出したリョウに、祆教寺院の老僧が声をかけた。
「この寺の地下には、安禄山が礼拝中に襲われた時のため、寺の裏に出る脱出口が掘ってある。ついて来てください」
 それは、地中に掘られた細い穴だった。「これじゃ太った安禄山は通れないな」と可笑しくなったリョウを尻目に、眼の見えないキョルクは穴の暗闇も気にならないのだろう、どんどん進んでいった。やがて地上に出たリョウたちは、群衆から身を隠しながら西市の「青海邸」に向かった。
 西市に入ると、そこでも暴動が起こっていた。安禄山にかこつけてはいるが、こちらの暴動は明らかにソグド商人の豊富な財貨を狙った無頼漢によるものだろう。
 街を走りながら、リョウは、おかしなことに気付いた。かなり組織的に動く集団が、ソグド商人の倉を襲い、手際よく財貨を運び出し、どこかに消えている。行き当たりばったりの暴徒には見えなかった。むしろその集団は、便乗して財産を奪おうとする街の男たちを叩き出したり、短刀で脅したりしていた。長剣を持った護衛の兵士のような者も混じっている。

 リョウは、キョルクを「青海邸」に連れて行き、長安を脱出する隊商(キャラバン)のソグド人隊長に、(せき)傳若(でんじゃく)の馬牧場まで送り届けるように頼んだ。(てい)と、一歳になったばかりの息子、愛淑(アスク)も一緒だ。
「婷、愛淑(アスク)とキョルクを頼む。必ず、石傳若の牧場に迎えに行くから待っていてくれ。それと、これはやっぱり婷のものだから」
 そう言ってリョウは、ずっと預かっていた婷のお守りを婷に返した。婷が故郷の寺でもらったもので、婷が縫ってくれた赤いお守り袋に入っている。
「代わりにこのお守りを。『悲田院』のある興唐寺でもらってきました」
 それは婷が縫ったという、紺色に金で刺繡されたお守り袋に入っていた。
「なんとかシメンも探して、連れてきてください。無事を祈っています」
 婷たちが出発するのも待たずに、リョウは「鄧龍(とうりゅう)」の指揮所に戻り、石工の軍団から腕利きの十人を選ぶと、すぐさま西市に取って返した。
「なんで年寄りの俺が行かなくちゃなんねえんだ」
 ぼやきの健が、いつものようにぼやきながら、しぶしぶついてきた。(そん)逸輝(いつき)や進も加わった。
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