十四(五)

文字数 1,318文字

 (てい)に会ったあの日から半年が過ぎ、リョウは婷への思いがますます(つの)るのを感じていた。時間が経つにつれ、あの別人のようだった白い顔が、突厥(とっくつ)の草原に居た婷の黒い顔と重なり、一人の女の顔としてリョウの心の中に居付くのを感じた。しかし婷は(かたく)なにリョウと会うことを拒絶していた。
 リョウは、「そうだ、これを返さなくては」と、竹の行李(こうり)にしまっていた婷のお守り袋を出し、手紙を添えてシメンに渡した。字が読めない婷に、シメンから読んでもらうためだ。
“このお守りは、婷のものだ。戦の後で、返そうと思ったが婷はいなくなっていた。もっと、もっと婷と話せれば良かった、一緒にいられたら良かったと、どれだけ悔やんでも、もう遅かった。何度も戦から生きて帰って来られたのは、このお守りのおかげだ。戦場でこれを握りしめ、この命は、誰かのためにあると気付いた。今度は、このお守りで、婷が病気を治してほしい”
 シメンが代筆した婷の返事が来た。
“ありがとう。でも、これはリョウにあげたもの。返してもらおうなんて思ったことは一度もありません。これからも、ずうっと持っていてください。このお守りがこれからもリョウを守ってくれると思うと、それだけで私は嬉しいです”
 それからも、時間をかけて、ゆっくりと、二人の手紙による交流は続いた。
“それなら、このお守りは、二人で一緒に持つことにしよう”
“そう言ってもらえて、とても嬉しいです。でも、私にはできません。もうそんな身体ではないのです。それは病気というだけではないことは、ご存じと思います。これ以上、言うのは辛すぎます。どうか、私のことは、そのお守り袋の中に閉じ込めて、忘れてください”
“何も心配しなくていい。必死で生きて来た過去があるから今の婷がいる。それを俺はまるごと受け止めたい。早く迎えに来られなかった俺を許してくれ”
 突厥の集落で過ごした頃、二人の間で話題が途切れると、婷はいつも農民の子守唄を口ずさんでいた。リョウは、覚えていたその一番の歌詞を手紙に書いた。
“婷の唄を覚えている。春が来れば 種を蒔く 夏が来れば 草を取る いつでもあなたは 背で眠る”
 婷の返信は、二番の歌詞だった。
“秋になれば 鬼が来る (いと)しい人よ さようなら それでも泣くな 背で眠れ”
 下手な字だった。シメンに習いながら、婷が一生懸命、自分で書いたのだろう。にじんだ墨は婷の涙の跡のようで切なかった。リョウは、あの時には無かった詞を、手紙にしたためた。
“冬になれば 鬼帰る (いと)しい人よ もう泣くな おれの胸で ただ眠れ”
 そして付け加えた。
“俺が彫った観音様の顔は婷の顔だ。悲しみをこらえ、人を優しく包み込む。だけど、俺は突厥(とっくつ)の草原でカラカラと笑っていた婷を覚えている。婷に笑いを取り戻したい、それが今の、俺の一番の願いだ”
 手紙を仲介していたシメンが、「こっちが恥ずかしくなる、もういい加減にして」と笑った。リョウはシメンに言った。
「こうして婷と手紙のやりとりをしているうちに、俺は確信した。俺が愛しているのは、過去の婷の幻影ではなく、まぎれもなく今の婷だ」
 その冬、婷は奴隷から解放され、青海邸のリョウのもとに嫁いできた。
(「嵐の予感」おわり)
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