十九(四)

文字数 1,300文字

 リョウは「鄧龍(とうりゅう)」に指揮所を置き、(でん)為行(いこう)と「青海邸」から呼び寄せた進を参謀役にして、夜を徹して方々に連絡を取った。六月十三日早朝、役人の宮廷への出仕、開門時間に合わせて宮廷内の状況を調べに行った(そん)逸輝(いつき)から、驚くべき情報がもたらされた。
「陛下は、もう宮廷に居ない。未明に長安を脱出して(しょく)へ向かったようだ。何も知らずに出仕した役人どもが、恐慌を来している。街にもその情報が流れて、騒然としている」
「最悪の事態だな。陛下がいないのでは、誰も長安を守ろうとは思わない。禁軍(王宮守護の軍)は陛下と一緒に脱出したのだろう。安禄山軍が来る前に、街のごろつきどもの略奪の嵐が来る。まずは自分たちをどう守るか考えろ」
 (とう)龍恒(りゅうこう)の言葉に、リョウはシメンやキョルクのことが心配だったが、今はとにかく、自分たちが結束しなくてはと、石工の混成軍団をいつでも動かせるように準備を進めた。
 街の混乱は、リョウの予想を超えるものだった。大きな袋を何個も担ぐ人の群れ、荷車に荷物と老婆を乗せて押す人、泣き叫ぶ子供をおぶった母親、大勢の人が通りにあふれ、四方の門を出て山や谷を目指している。宮廷から着の身着のままで逃げ出してきた女官が走りながら泣いている。貴族の屋敷から出て来た荷馬車からは、積みきれない宝物が道の左右にこぼれ落ちていた。
 そして心配していたことが起こった。宮廷近くの倉や貴族の屋敷から火の手が上がったのだ。
「安禄山軍の先陣が早くも都に入って、政府の倉を襲っている!」
 宮廷や役所の倉が襲われ、略奪の後、放火されているという知らせに、リョウは言った。
「うろたえるな、いくら何でも安禄山が来るには早すぎる、火事の延焼に備えろ」
 指揮所の留守を(とう)龍恒(りゅうこう)(とう)龍溱(りゅうしん)の親子に託し、リョウは石工軍団の主だった者十名ほどを引き連れて、宮廷の周辺に見回りに出た。金貨や絹織物など、高価なものを収蔵していると言われる政府の倉の前に来た時、荷を担いで出て来た集団は、胡服(こふく)(よろい)(かぶと)の一団だった。
「安禄山軍だ!」
 進の声に、リョウが答えた。
「落ち着け、良く見てみろ。あいつらの持つ剣も槍も、唐軍のものだ。安禄山軍を(かた)って皇帝の財産を奪いに来た者がいる。だが、俺たちは宮廷の守備兵ではない、かかわるな」 
 そう言って現場を離れようとしたリョウが見上げた先に、安禄山軍に偽装した盗賊団を指揮する(りゅう)涓匡(けんきょう)の顔があったような気がしたが、それはすぐに見えなくなった。
 「鄧龍」にある指揮所に戻ったリョウに、また新たな情報が寄せられた。
「安禄山の間諜が、金持ちに恨みを持つ貧民や浮浪者をけしかけ、貴族を襲わせている」
「安禄山と親しいソグド商人たちが、安禄山軍に呼応して暴動を起こし、街を焼き払おうとしている」
「安禄山が信奉する祆教(けんきょう)(ゾロアスター教)寺院の僧侶が、街中の井戸に毒を放り込んでいる」
 信憑性の不確かな情報が、次々に寄せられ、街の人々が言いようのない不安に包まれていくのが、リョウには手に取るように分かった。持っていき場のない怒りや恨みが、異質なものや弱い者に対する憎悪として膨らんでいく。「落ち着け、真実を見極めるんだ」、リョウは自分に言い聞かせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み