十五(二)

文字数 1,359文字

 それから間もなく、三月になったとたんに安禄山は慌ただしく范陽(はんよう)に帰った。(ちまた)の噂では、安禄山は皇帝による送別の宴のあと、逃げるように走り去り、大勢の水夫が綱を引く軽舟で一日三百里(約150km)の速さで黄河を下って行ったという。あまりに急だったので、リョウもアユンと別れの挨拶を交わすことができなかった。リョウは、安禄山が去った後の屋敷にキョルクを訪ねて事情を訊いた。
「安禄山が謀反を(はか)っていると(よう)国忠(こくちゅう)が言い(つの)るので、暗殺を恐れて帰ったのだ」
「それなら、ここにいる(あん)慶宗(けいそう)やキョルクも危ないではないか」
「陛下は謀反の噂など全く信じていない。安禄山が健在な限り、楊国忠も下手な手出しはできまい」
 キョルクが言うには、陛下は安禄山を宰相に任じようと、辞令まで書かせたのだという。しかし楊国忠が「漢字も読めずに古典も知らない男を宰相にしたのでは、諸外国になめられる」と大反対した。それで安禄山は「このままでは楊国忠に殺される」と陛下に泣きついた。その結果、宰相の話は取りやめになったが、代わりに尚書(しょうしょ)()(ぼくや)(行政実務を行う尚書省の次官)に任じて千戸の俸禄 《ほうろく》と奴隷を授け、さらに閑厩(かんきゅう)隴右(ろうゆう)群牧(ぐんぼく)等使(とうし)に任じ、群牧(ぐんぼく)総監(そうかん)も兼務させたという。
「これがどういうことかわかるか、リョウ」
「いや、唐の官職は複雑で良くわからない」
「尚書省の役職は形式的なものだろうが、後の方に大きな意味がある。閑厩(かんきゅう)というのは軍馬の飼育と調達を担当する役職で、隴右(ろうゆう)群牧(ぐんぼく)は隴右地方の牧場を監督する役職だ。つまり、馬の取引も、飼育する軍馬牧場も、全部、安禄山の支配下に入ったということだ」
「本当か。それでは(せき)傳若(でんじゃく)の牧場も、青海(せいかい)駿(しゅん)の取引も、安禄山が相手になるのか」
「そういうことだ。安禄山は、腹心の吉温(きつおん)閑厩(かんきゅう)副使に昇進させて、その実務を仕切らせることにした」
「なんだと、吉温が!キョルクには教えておいた方がいいだろう。吉温は、李林甫、楊国忠、安禄山と主を変えてきた評判の悪い男だ。しかし俺の情報では、一貫して(ちょう)萬英(まんえい)という貴族出の武将に仕えている。趙萬英が、朔方(さくほう)の一将軍だった頃から、羽立(うりゅう)大将軍になった今も変わらない忠誠だ」
「なるほど、確かに吉温は、今は安禄山のお気に入りだ。もしそれが事実なら、吉温の裏働きは(すさ)まじいものがあるな。忍耐強く、頭もいいし、恐ろしい男だ」
「吉温が安禄山に本気で乗り換えたのならともかく、これまでの経緯を考えると、今も趙萬英の意を受けて動いている気がする。そうなると、何万頭もの軍馬が、いずれ趙萬英の指揮下に組み入れられるかもしれない。用心した方がいい」
「ありがたい情報だ。俺は、今は安禄山の下にいるが、何かあればアユンたち突厥(とっくつ)の一族と行動を共にする。リョウも覚えておいてくれ」
「アユンは、安禄山の下ではどういう立場なんだ」
「アユンは、国境地帯で安禄山のゲルを襲い、いったんは捕らえた男だ。安禄山は、そういう男が大好きだ。それに、安禄山の剣を叩き折った強い剣を作る製鉄職人がいると知って、金も人も集めて製鉄所を作らせた。そこを仕切っているのはアユンに付いてきた突厥の製鉄一族だ」
 リョウはかつて、突厥の集落で飛刀用の石鑿を作らせたことがある。突厥の製鉄と加工の技術は優れており、職人はリョウの希望どおりのものを作ってくれたことを思い出した。
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