十八(七)

文字数 1,584文字

 時を置かずに、常山からの追手が、土門関を奪いに来るのは明らかだった。()欽湊(きんそう)の兵は五千だが、大将の李欽湊をはじめ、千人隊長ら安禄山の下で実戦経験を積んできた将軍は、ほとんど常山の(がん)杲卿(こうけい)の屋敷で討ち取られた。近郊の村から集められた農民兵らは、太守の顔杲卿が安禄山に手のひらを返した以上、安禄山軍として戦う意味はなく、多くが逃げ出し始めていた。残った兵も、一万の顔杲卿軍が土門関に向かっていると聞いて動揺した。安禄山軍が行った陳留や洛陽での虐殺の仕返しに、土門関に残った兵は一人残らず殺されるという話も広がっていた。このままでは守備は崩壊し、全滅することは、火を見るより明らかだった。
「リョウは、俺たちと一緒に戦ってくれるのか」
「俺は何とか戦を止めたかった。しかし、もう平和は望めないだろう。いくらアユンのためでも、陳留や洛陽で虐殺を繰り返している安禄山軍に味方するつもりはない」
「リョウは逃げている。より良い世の中を望むなら、戦うしかないだろう。戦争に勝つから平和があるんで、平和が良くて戦争が悪いなんてことはないはずだ。顔杲卿だって俺たちを汚い手で殺そうとした。平和のために武器を持たないなんてのは、何年も戦を知らずに生きてきた能天気な奴らが言うことだ」
 アユンの言葉に対してリョウは何も言えなかった。人が殺しあう戦争に正義はないと思ってきた、何とか止めたいと思った。しかし戦わなければ正義は得られないのかもしれない。アユンが畳みかけてきた。
「今度のことで、はっきりした。安禄山軍は占領した街で虐殺を行ったかもしれないが、朝廷軍だって立場が変われば同じことだ。虐殺には虐殺で仕返ししようとする」
「そうだな、戦場というのは、人の残虐性を目覚めさせる」
 リョウの言葉に、アユンは今までの戦いの日々を思い起こしているようだった。そして言った。
「人は、いちど残虐さを体験すると、際限なく残虐になれる。自分や仲間が殺されないよう、敵を殺すのが戦争だ。戦争で勝てば家族や仲間も安心して暮らせるようになる、そのためなら俺は人を殺すことも厭わない、ずうっとそう思って戦ってきた。俺たちはバズの死を無駄にしない」
 その強い言葉の裏にある、アユンの長年にわたる呻吟(しんぎん)と、本当はリョウが彫ってあげた木彫りの熊さえ大事にする心優しいアユンの本性とを思い、リョウは何も言わずにアユンを抱きしめた。
「俺は安禄山に味方できないが、顔杲卿と戦った以上、今や朝廷の敵にもなった。それが知られれば、長安では暮らしていけなくなる。一刻も早く長安へ戻って、家族や仲間を守る算段をつけなくては」
「リョウが家族を守りたいと言うように、俺は、突厥(とっくつ)から連れて来た俺の部族を守る責任がある。何としても、ここの囲みを破って、幽州まで戻る。李欽湊と違って、俺の突厥の部隊は強いし、テペもいる」
「何か手はあるのか。ドムズが言っていた、少なくとも攻め手は二つ、逃げ道はそれ以上準備しろと」
「心配するな、俺たちほどの実戦経験を持つ部隊は、唐軍にはいないだろう。二千の兵が(きり)のように突進すれば、敵の一万を切り裂ける。まあドムズが言ったことも忘れないようにする。『状況は常に変化する、思った通りに行かないのは当たり前だ。だからうまくいかなくとも、新しい攻め手と新しい逃げ道の両方を増やし続ける』だったな」
「そうだ、アユンたちならできるだろう、なんとか無事に敵陣を突破して幽州に戻ってくれ。俺は、ここで別れて、土門関の西、太原(たいげん)に行き、そこから長安に戻る。いつか長安にキョルクを迎えに来い。醴泉(れいせん)坊の祆教(けんきょう)寺院に(かくま)っているが、居なかったら石屋の『鄧龍(とうりゅう)』を訪ねろ」
 そう言ったリョウとアユンは、がっちりと抱き合った。「アユンとはこれが最後かもしれない」との思いが(よぎ)ったが、それを振り払うように、リョウは笑顔で別れを告げた。
(「常山の罠」おわり)
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