六(三)

文字数 1,300文字

 降り続いた雨が上がり、六月の爽やかな空が広がっていた。旅を始めて四日目、蘭州からしばらく東へ行った辺りで、一行は前日までの雨でぬかるんだ上り坂に差し掛かった。
 坂の途中で、泥に車輪を取られて往生している一台の荷馬車に追い付いた。初老の男が馬車から下りて手綱を引き、若い男が後ろから押しているが動かない。リョウは、泥に食い込む車輪の深さが気になり、初老の男に声をかけた。
「だいぶ重いものを運んでいるようだな。良かったら上まで、こちらの馬で一緒に()こうか」
「それは助かる。雨の影響を軽く考えすぎたようだ」
 馬と荷車を綱で結びなおし、二頭立ての馬車に仕立てている間、朱ツェドゥンが誰にともなく言った。
「この辺は黄土高原だ。砂漠の砂が風に巻き上げられ、長年にわたって降り積もっている。晴れた日には固く見える土も、雨には弱い」
 御者台に初老の男と並んで座ったリョウは、気になっていたことを訊ねた。
「幌の下の積み荷が見えた。石も積んでいるようだが、何に使うんだ」
「わしらの主人は、朝廷の役人なのだが、行く先々で土地の豪族から墓誌(ぼし)揮毫(きごう)を求められる。頼まれると断れない(たち)で、しかも()真面目(まじめ)で、いい加減な仕事はできないときている。だから、赴任先にはこうして石板(せきばん)までいちいち運ばせるんだ」
「石など、どこにもあるじゃないか」
「わしもそう言いたいところだが、良い石屋とか、石碑用の石というのは、地方に行けばそうあるものではない。そのこだわりは、石工の俺としてもわかるから、こうして苦労して運んでいるんだ」
「あなたは、石工だったのか。実は、俺も多少は石を彫る」
 初老の石工は、驚き顔でリョウを見た。並んで馬に乗っていたツェドゥンが、横合いから声を掛けた。
「差し支えなければ、ご主人の名前をお聞かせ願えないか。さぞや高名の書家とお見受けしたが」
監察(かんさつ)御史(ぎょし)(がん)真卿(しんけい)様だ。昨年の秋に河西(かせい)隴右(ろうゆう)軍(陝西省・甘粛省)覆屯(ふくとん)交兵(こうへい)使()として赴任してきたのに、この春に河東(かとう)朔方(さくほう)軍(山西省、オルドス)覆屯(ふくとん)交兵(こうへい)使()を命じられ、こっちはこの重たい石を持って、西に行ったり東に行ったり、まさに右往左往だ」
「監察御史の(がん)真卿(しんけい)殿であったか。リョウは知らないだろうが、科挙の進士科に合格した方で、いずれは宰相も約束されていると言われる方だ。それだけでなく、顔家は、代々書法に優れ、また律儀な忠臣としての誉れが高い一族だ」
「おや、そっちの方は良くご存じのようだ。その顔真卿ですよ」
「俺には良く分からないが、監察御史とか覆屯(ふくとん)交兵(こうへい)使()とか、そのやたら長い職名は何なんだ?」
 長い坂道を上りきり、手綱を荷車から外しながら訊いたリョウに、初老の石工が答えた。
「監察御史というのは官僚のお目付け役で、その中でも覆屯交兵使は、地方の査察をするお役目だ」
「だからあちこち行くんだな。それであなたは、その顔真卿の書を石に彫るのか」
「そういうことだ。顔真卿専属の石工というのは、名誉な仕事だ。いずれ、主人も俺たちも長安に戻るだろうから、そのときは屋敷に寄ってくれ。俺の名は秀だ、今日の礼くらいはさせてもらうよ」
 そう言う男に手を振り、リョウたちは長安に向けて、再び馬の足を急がせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み