一(三)

文字数 1,381文字

 その日からリョウは、朝から晩まで石に向かった。
 哲は、詳しい技法は教えなかったが、哲が彫る横で作業を見ることは許した。哲も、久しぶりの弟子なのだろう、教えるのを楽しんでいるようだった。「(おう)羲之(ぎし)を習ったというが、こんな字を彫るようじゃ怪しいものだな」、そんなことを言いながら、リョウが彫った字をあちこち手直しした。その過程を一つも見逃すまいと、リョウは食い入るように見つめ、仕事が終わった後には、一人で別の石に向かって練習した。
 半年ほどして、リョウは儒教の経書の一つ「孝経(こうきょう)」の注釈文を任された。「どうして仏教寺院で儒教なんだ」と訊ねたリョウに、哲は「まあ飯のタネだな。これは『天子の書』と言って、皇帝(玄宗)が書いた孝経の解釈文だ。石碑にして全国に建てるっていうんで、石工が不足してお鉢が回ってきた。寺で彫ったからといって、(ばち)は当たらんだろう」と言って笑ったのだった。
「おう、待たせたな。どれ、見せてみろ」
 哲が来て、リョウが彫り終わった石碑を吟味し始めた。離れて眺めたり、近づいて字の(へり)を指先でなぞったりしている。
「もうそろそろ、いいかな」
 哲は、そう言って笑った。いつもながら、笑うと仏様のような顔になるなと思ったリョウに、哲が手渡したのは、石碑の文字用とは別の、少し大ぶりの石鑿(いしのみ)だった。
「どうだ、今度は、ちゃんと仏様を彫ってみるか?お前が、石仏や馬を彫っているのは知っている。見様見真似で彫ったにしては良くできているが、馬はさておき、あのままでは仏さんがかわいそうだ」
「俺は仏様のことは良く知らない。ただ、皇甫(こうほ)将軍や褚誗(ちょてん)副将の魂を(しず)められるのならと思って、石仏を彫っていたんだ」
「住職が、よく皇甫将軍のことを()めていたものだ。今じゃ、その名前さえ表立って出せないが」

 それからさらに半年が過ぎた。心が揺らぎ、死んだ皇甫(こうほ)将軍や褚誗(ちょてん)の顔が浮かぶこともあった。秋も深まった頃からは、寒さを避け石窟内部で岩壁を彫った。氷に閉ざされたような冬にも、黙々と石刻に(いそ)しむ日々が続いた。こうして頭が空っぽになりかけたとき、リョウは漸く皇甫(こうほ)惟明(いめい)将軍の死から立ち直れそうな気がして、その霊を弔うための石仏を完成させたのだった。厳しい寒さも少しずつ緩み、河畔には白や黄色の花がちらほら咲き始めていた。

 河原で石を彫っていたリョウは、向こう岸から船が近づいてくるのに気がついた。船から下りて来た男を見て、リョウは船着き場へ走った。
「ツェドゥン!」
 (しゅ)ツェドゥンもリョウに気付いた。
「おお、リョウ、元気でしたか」
「ええ、何とか。皇甫将軍のために石仏を彫ったので、ぜひ見てほしい」
「それは良かった。ぜひ拝ませてください。その前に、こちらの方を紹介しましょう。長安から来てくれた呂浩(ろこう)です」
裴寛(はいかん)の使いで参りました呂浩と申します。(せき)(りょう)殿のことは、朱ツェドゥンから聞いております」
 細身の身体に盤領(まるえり)雑袍(ざつほう)(普段着の上衣)を(まと)ったその男は、そう言って軽く拱手(きょうしゅ)(両手を胸の前で重ね合わせる挨拶)をした。船から下りて来たのは、朱ツェドゥン、()(こう)のほか、職人風の男が十人と、奴隷の身なりの男女が数名ずつで、全部で二十人ほどだった。
 リョウが朱ツェドゥンと一緒に本堂に向かうと、そこには、住職のほか、石工の頭領の哲も既に座っていた。リョウ以外は顔見知りどうしのようだったが、みな難しい顔をしていた。
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