二(四)

文字数 1,365文字

 健が、職人の男に言った。
「お前は、その石板に残りの三文字を彫ってくれ。俺は、こっちの石板に天地玄黄の四文字を彫る」
「ほお、相当に自信がありそうだな。俺の方が先に彫り終わったら、俺が頭でいいな」
「それで良いが、その三文字がいい加減な彫りだったら、ここに居る職人たちは納得しないだろうよ」
「なめるんじゃねえ、後で尻尾(しっぽ)を振って逃げ帰ることになっても知らねえぞ」
 男の言葉を無視するように、健が近くの作業場に向かったので、男は慌てて追いかけ、宿舎の職人たちもぞろぞろとついて行った。
 道具をそろえ、石刻用の台の前に座った二人は、哲の合図で字を彫り始めた。ほかの職人たちは、もう仕事を始める時間だったが、哲も後々の影響を考えてのことだろう、みなが二人の石刻を見ることを許した。

 リョウは、二人が並んで「天地玄黄」の四文字を石板に彫るのを見ていた。王爺さんに書を習い、筆や墨まで工夫して一緒に作ったこと、その字を風雪吹き付ける小さな小屋の中で汗をかきながら、石に彫ったことが思い出されてきた。
 そのとき、リョウはおかしなことに気がついた。宿舎の石工が彫っているのは、石板に字の形をそのまま彫る陰刻だったが、健は字が凸状に浮き上がる陽刻で彫っていた。四辺の(ふち)と字の形を残し、全面を彫りこんでいる。しかも、浮き出した「天」の字は左上にあり、記号のような不思議な形をしていた。そして左右対称の「天」では気付かなかったが、「地」の字を見ると、それは左右逆の鏡文字であった。
 ただでさえ、石に字を彫るのは大変なのに、陽刻の鏡文字を、何も見ずに頭に浮かべながら彫っていることに、リョウは驚嘆した。周りで見ている職人たちも気付いたのか、周囲がざわざわしてくるのがわかった。
 健の彫り方には、彫り直しというものがほとんどなかった。石板に当てる石鑿(いしのみ)の角度を決めると、迷わず金鎚(かなづち)でガツンと打ち付ける。その強さで、健の思った通りの大きさと厚さの石が削れていくのが良く分かった。石板に凸状に浮きだした文字を壊してしまうのではないか、そう心配するような連続打ちで、次々に文字の輪郭を打ち出していく。それが鏡文字であることを、リョウは信じがたい気持ちで見ていた。
 やがて健は、小さめの石鑿(いしのみ)で形を整え始め、始めてから半刻(1時間)経ったところで、両者はほぼ同時に、文字を彫り終えた。リョウから見て、宿舎の石工が彫る字も決して下手ではなかったが、陰刻の三文字と陽刻の四文字では、勝者は明らかだった。
「なんだ、それは。違うものを彫ったら、比較にならないだろ」
 負け惜しみの様に抗議する男も、内心では健の力量に驚嘆していることが見えた。
濃墨(のうぼく)と紙をくれ」
 そういった健は、哲が渡した少しねっとりとした墨を石板に塗り、紙の上に押し付けた。そおっと持ち上げた石板の下で、「天地玄黄」の見事な文字が紙に写し出された。
「まあ怒るな。簡単すぎてもなんだから、少し余興と思ってな。長安の尚書(しょうしょ)省(国政の中枢で契約文書も取り扱う省)に出入りする石刻師は、こんな篆刻(てんこく)(いん)くらいは朝飯前にできないと」
 肩を落とす宿舎の石工に哲が言った。
「相手が悪かったな。ただ、お前の腕もなかなかだ。頭領代理ということで、これからも協力してくれ」
 男は、そう言われて面子(めんつ)を保てたことにホッとしたのか、素直に(うなず)いた。
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