十(四)

文字数 1,487文字

 少し涼しくなってきた頃、リョウは石刻のため久しぶりに「鄧龍(とうりゅう)」に行くことにした。
 長安の街は、南北十一本、東西十四本の街路で碁盤目状の「(ぼう)」に区切られている。各坊は土塀で囲まれ、東西南北に門があり、日暮れには坊の門が閉められる。屋敷から街路に直接門を付けることは禁じられていた。しかし、人が増え、商売が盛んになった今の長安では、例外的に解禁され、街路に直接門を持つ屋敷や寺、商工業者の大店が増え、繁華街には活気と混沌が入り混じっていた。
 西市の「青海邸」から東市の「鄧龍」までは、街を東西に隔てる大通り「朱雀(すざく)門街」を横切って十二里(約6km)ほどある。「青海邸」は商売の都合で、街中を馬や馬車で通行する許可を取っているが、リョウは歩いて向かうことにした。
 リョウの速足だと、「鄧龍」まで四半刻(約30分)少々だ。それでも、着いた時にはすっかり汗をかいていた。店の者が出す茶で一息入れ、石工たちと打ち合わせをしたリョウは、自分の仕事場に入った。客の貴族から、屋敷内の洞に納める、高さ三尺(約1m)の小さな観音菩薩の依頼を受けていたのだ。
 リョウは、まだ何も彫られていない石塊(いしくれ)に向かって心を静めた。「良き石刻師は、石から形を作り出そうとせず、石の中に既にある形を削り出してやる」という師匠の哲の言葉を思いながら、その石塊が削られて観音様の立ち姿になっていくのを想像する。そして、(いし)(のみ)を当てながら、石塊と対話する。「どうして欲しいんだ、こうか」「いや違うな、これでどうだ」、そのうちに、石塊の声が聞こえてくる。その声の導くままに、夢中で彫っているうちに、リョウは静寂の世界に入り込んでいった。自分が振るう金鎚と石鑿の音だけが、繰り返される。周りの音も人も全く気にならない。
 頭を空っぽにして石に向かうその時間が、リョウは好きだった。二刻(約4時間)ほど彫り続けて、リョウはようやく石鑿を置いた。まだ、全体の輪郭を彫り出しただけだったが、その日は、大寧(だいねい)坊の興唐寺にタンを訪ねることにしていたのだ。
 「鄧龍」から興唐寺までは北に六里(約3km)である。武則天の娘の太平公主が建てたというその寺は、創建から五十年ほど経っていたが、よく手入れされ、まだ新しい寺という感じを保っていた。その寺の入口で案内を請うと、寺男が奥に進むように言った。本堂の左手奥に、平屋の簡素な木造建物があり、子供たちの声が外まで響いていた。そこが「悲田院」だった。
 リョウは、大工仕事から戻ってきたタンを外に連れ出した。
「タンは、長安に来てから、仕事以外はどこにも行ってないのだろう。もう酒楼(しゅろう)が開く時間だから、たまには俺に付き合ってくれ」
「『悲田院』は人様の慈悲にすがって貧乏人の世話をしているところだ。俺はそういう場所には行けない」
「タンのことだから、そう言うと思った。ただ、俺は奴隷として買われたシメンや(てい)は、居酒屋か酒楼あたりにいると考えて探しているんだ。飲み食いしないで、話だけ聞くわけにもいかない。一人じゃ行きづらいから付き合ってくれ、今日は俺の(おご)りだ」
 そう口説くと、タンも嫌とは言わずについてきた。リョウの言ったことは本心だったが、今日に限っては、タンにもたまにはうまいものを食わせたい、という気持ちだった。それに、自分も朝飯を食べてから何も食べてないので、腹も減ってきた。東市の近く、春明門の辺りには居酒屋が多い。貴族が行く酒楼と違って、日暮れ前には店が閉まるので、明るいうちから飲むのが普通だ。二人は、一軒の飯屋に入った。
(長安の街の平面図を小説本文の始まる前に掲載しましたのでご参照ください)
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