二十(一)

文字数 1,306文字

 未明の皇帝脱出の報から始まった長安の長い一日も、もう暮れようとしていた。タンの弔いは、危急の折でもあり、興唐寺の希遠(きえん)和尚に頼み、リョウは宣陽坊の韓国夫人の屋敷に向かった。
 予想したことではあったが、楊貴妃の姉である韓国夫人の屋敷も、暴徒に襲われ、家財がそこら中に散乱していた。置いていかれた女官が泣き叫んでいる。物陰から出て来た顔見知りの執事に、シメンの行方を訊いた。
「昨夕、楊国忠から連絡が来て、韓国夫人と身の回りの世話をする女官だけで、出かけました」
「シメンはどこにいるか知らないか」
「韓国夫人は、また秘密の宴会でもあるのかとウキウキした様子で、踊り子のイルダとシメン、それに赤子まで連れて行ったのです。それが、まさか、皇帝と長安を脱出するとは。私も置いていかれたのです」

 「青海邸」に戻ったリョウを珍しい男が待っていた。朱ツェドゥンだった。
「リョウ、こんな時に済まないが、折り入って頼みがあります。今、ちょうど吐蕃(とばん)(チベット)の使節団が長安に向かっています。金城(きんじょう)公主が嫁いだティデツクツェン王のことはリョウも知っていますね。そのティデツクツェン王が昨年亡くなり、唐の朝廷は弔問の使節団を送りました。今は京兆(けいちょう)(いん)になっている崔光遠が団長でした。その返礼の使節団が長安に向かっています。不案内な土地で動乱に巻き込まれれば、また両国の紛争の火種となります。遺漏の無いよう私が迎えに行きたいのですが、今は大混乱で、誰も助けてくれません。西に向かう馬を用立ててもらえませんか」
「事情は分かった。一人では危険だ。ちょうど俺も、シメンを探しに西に向かうから、一緒に行こう」
 リョウは、シメンを探しに行くことを伝えるため、「鄧龍(とうりゅう)」の指揮所を訪れた。(とう)龍恒(りゅうこう)が教えてくれた。
「陛下は、皇太子ら皇族、楊国忠と楊貴妃の姉妹、若干の要人とその家族、それに宦官(かんがん)と女官の一部だけを連れて、深夜に延秋門から西へ脱出したそうだ。龍武大将軍の(ちん)玄礼(げんれい)が兵二千を率いて護衛についている。シメンもその中にいるのではないか」
「『青海邸』のソグド商人らも、皆、隊商(キャラバン)を組んで西に発ってしまった。(てい)も子供も一緒だ。俺も、もう当分は戻って来られないかもしれない。皆には、本当に世話になった。無事を祈る」
 朱ツェドゥンと何やら話し込んでいた哲が言った。
「俺は、炳霊(へいれい)寺から戻って、裴寛(はいかん)の世話になっていたが、去年、裴寛が亡くなった。長安にはもう未練がない。リョウが西に行くなら、俺もまた敦煌(とんこう)に行きたくなったから、一緒に行かせてくれ」
 健が驚いた顔で哲を見たが、すぐにいつものぼやき顔に戻った。
「まったく、五竜朋が終わった後の面倒を、俺一人に押し付けやがって」
 安禄山軍の侵攻で、洛陽の「雲龍」「蒼龍(そうりゅう)」とは連絡もつかず、長安では「黒龍」と(たもと)を分かつことになった今、五竜朋はもはや崩壊したようなものだった。鄧龍恒が言った。
「『黒龍』は、五竜朋など、どうでもよかった。李林甫は賄賂を受け取っても何もしてくれないし、楊国忠は、もうけがなくなるほど多額の賄賂を贈らないと何ごとも前に進まない、だから、政商として共通の利益を追求できる新しい宰相を作ろうと、(ちょう)萬英(まんえい)を担いだのだ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み