十(五)

文字数 1,423文字

「腹が減っている。この店の売りは何だ」
「うちでは、胡麻の味を効かせて、中に豚肉と野菜をたっぷり挟んだ胡餅(こへい)が人気です。最近は、皮に緑豆の粉を練りこんだのが、風味が良いと評判です」
「それなら、まずそれをもらおうか。あと、羊肉を焼いてくれ」
 注文を聞きながらうなずいたタンが言った。
「やっぱり、突厥(とっくつ)の草原で食べたものが、どうしても懐かしくなるな」
「ああ、ほんとなら馬乳酒も飲みたいところだが、さすがにここにはないだろう。後で、石榴(ざくろ)酒をもらおう」
 しばらくして料理を運んできた若い女にリョウは尋ねた。
「実は、知り合いの女を探している。突厥の奴隷だった女がいると聞いたことがないか。一人はソグド人顔で頬に傷がある女で、もう一人は漢人の浅黒い肌の娘、歳はお前さんと同じくらいだ」
「そう言われてもねえ、長安には百万人も人がいるんだから……。もし美人だったら、この先の平康坊にでも行って探すといいよ。男相手の商売をする店が、それこそ貴族向けから庶民向けまであるから」  
 期待はしていなかったリョウだが、もしかしたら色街に沈んでいるかもしれないと、自分が心配していることを若い女にはっきり言われて、胸がふさいだ。タンが気の毒そうな目でリョウを見た。
「ところで、タンがいる『悲田院』には、戦争孤児が多いのか」
「いや、戦争孤児っていうのは、兵士に駆り出された農民の子が多いから、実は、長安にはあまりいないんだ。真っ先に死ぬのは将軍や上官じゃないからな」
「それは、唐でも突厥でも同じだ。結局、羊飼いや農民の声は上に届かず、権力者が戦争をする」
「ああ、負けると思って戦争を始める奴はいないから(たち)が悪い。負けそうになったら、農民を徴兵し、訓練されてない若者をどんどん投入して、大量の戦死者を出してでも、勝つまで止めない」
「数百人の石堡(せきほ)城を力攻めにして、数万の死者を出した哥舒(かじょ)(かん)、それをさせたもっと偉い人……」
 ここでリョウは声を潜めた。街中でうっかり話す話ではなかった。食後に石榴(ざくろ)酒を飲んでから、二人は店を出た。足は何となく、春明門から東市を通って、店の女が言っていた色街に向かい平康坊の角まで来た。土塀の内から音曲やざわめきが街路まで聞こえてくるが、リョウは中に入ることはできなかった。「今度、龍溱(りゅうしん)にでも頼んでみるか」と思った時、門から女が走り出てくるのが見えた。顔を上げた女を見て一瞬「(てい)!」と思ったが、そのはずもなかった。女はすぐに、追いかけてきた男たちに連れ戻された。
 平康(へいこう)坊の南隣は宣陽(せんよう)坊で、ここは楊氏の五家が競って家を建てたところだ。その南、親仁(しんじん)坊までぶらぶら歩いてきた二人は、古い家の門と塀が打ち壊され、街路に面した店も中の住宅も、無残に取り壊されている一帯を目にした。追い出されたのだろうか、母子がポツンと街路に座って茫然(ぼうぜん)としていた。大勢の人夫が廃材を運び出している。「どうしたのだ」と聞いたリョウを、女が見上げた。
(あん)禄山(ろくざん)の新邸を作るからと、有無もなく追い出されたのさ、あの雑胡(ざっこ)は隣の永寧(えいねい)園に家があるのに」
 安禄山が先月入朝し、(けい)の捕虜八千人を献上したことは街の噂になっていた。
「食べるものが無くなったら、子供を興唐寺の『悲田院』に連れてきなさい」
 そう母親に向かって言ったタンが、リョウにつぶやいた。
「この街には、戦争孤児ではなく、さっき逃げ出してきた妓女や、今の母子のような、大都会で捨てられていく者とその孤児がたくさんいるんだ」
(「悲田院」おわり)
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