付録2 顔真卿の「祭姪文稿」

文字数 1,376文字

 2019年1月16日~ 2月24日、東京国立博物館で特別展「(がん)真卿(しんけい)(おう)羲之(ぎし)を超えた名筆-」展が開催された。
 顔真卿は、王羲之と並び称される中国の書家であり、また「安史の乱」に立ち向かった唐朝廷の貴族でもある。その生きざまは剛直とも、節義の人とも称され、安史の乱の後も正論を貫き、最晩年には政敵から敵方に送り込まれることを受け入れ、その地で壮絶な最後を迎えた。
 その名筆と共に、その生きざまが、多くの中国人の共感を呼ぶのだろう。普段は台湾の台北にある国立故宮博物院に収蔵されている「祭姪(さいてつ)文稿(ぶんこう)」が、日本で初公開されるというので、中国本土からも多くの人が飛行機代を払ってまで訪れ、会期中の来場者数は20万人になったという。
 私は、書道をたしなむ妻とこの展示会を見に行った。書も、顔真卿も知らない私は、何も期待していなかったが、長時間の列に並んで「祭姪(さいてつ)文稿(ぶんこう)」を見に来た人たちの波にもまれるうちに、その熱気が移ったのだろうか、ようやく眼にした真筆には大変に感動した。

(「祭姪文稿」東京国立博物館ホームページの特別展の案内より転載)
 その時の自分の興奮を記した文章を、そのまま次に掲載する。
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「これは、書をやる人には書で、書をやらない人にはその生き様で、魂に訴える力を持つものだ。
 書いてあるのは、あの有名な「安史の乱」で、顔真卿の従兄(がん)杲卿(こうけい)とその子(がん)季明(きめい)(※)がむごい死に方をしたことを、嘆き悲しんで追悼する文の草稿で、激情に駆られて字が激しく揺れ動いている。これが詩人や書家であれば、それだけのことだが、実は、この顔真卿その人が、実直謹厳な宮廷人であり、かつ、賢く勇猛な武人なのだ。安禄山の謀反の兆候を感知した顔真卿は、文人を気取って敵の目を欺きながら着々と(へい)を作り、(ほり)を掘り、人を集めて戦いの準備をし、周りが次々と反乱軍に降伏していく中、唐の王朝に忠誠をつくして頑強に攻撃に耐えた。
 この戦いで、顔一族は、杲卿(こうけい)季明(きめい)のほか三十名ほどの犠牲者を出しているという。そして、これほどの人でありながら、あるいはこれほどの人だから、常に表裏なく正論を言い続けることにより、地方への左遷と中央復帰を繰り返し、最後は顔真卿を嫌う宰相の謀略と知りながら、皇帝の命を守るべく敢然と敵の説得のために死地に赴く。
 中国人ならずとも、この人の生き様、正義感には感動せずにはいられない。その顔真卿が、中国一といわれる名筆で激情を走らせたのが「祭姪(さいてつ)文稿(ぶんこう)」である。実際にその人の手が触れ、その人の嘆き悲しむ声を聞いたであろう一枚の茶色い紙、千二百年経った今も黒々とその思いを伝える筆跡。その一枚の書は、長い年月、暗闇で鈍い光を放ち続けていたかのような(たたず)まいで今、眼前に在る。僕の頭の中には、千二百年前の光景がありありと浮かんできた。」(2019年2月13日)
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 この特別展を見たことが、「石刻師リョウ」を書くきっかけになったことは言うまでもない。「石刻師リョウ」を書き終えた今、いつか、顔真卿の晩年の活躍を書いてみたいと思っている。顔真卿が77歳で没した時(西暦785年)、リョウは60歳である。また二人が出会うのかどうか、一番楽しみなのは私である。

※ 「(てつ)」は(おい)の意味だが、当時の中国では従兄が兄弟と同列で、従弟の子も甥になる。

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