六(四)

文字数 1,482文字

 昼にはまだ大分間があるというのに、「長安とは、これほど暑い所だったろうか」と、リョウは思った。
 家族が長安を追われて北の草原に移り住んだのは、もう十四年前、リョウが十歳のときだった。その後に奴隷として過ごした突厥(とっくつ)の草原も、馬商人として暮らした河西(黄河の西)の沙漠地帯も、高原で寒さばかりがこたえる土地だった。その間にリョウの身体は、すっかり長安の暑さを忘れたようだ。
 子供の頃には意識していなかったが、街を囲む壁は高く、街に入る門は、門というよりは城砦(じょうさい)とでも言った方が良いくらい巨大だった。その門を抜ける三本の道では、通行証や馬車の積み荷の厳重な検査をしている。通行人の数から荷物の中身まで、役人が何でも筆で紙に書きつけているのが、リョウにはとても新鮮に見えた。
 子供の頃には横断するのさえ冒険のように思えた広大な通りには、それでも狭いとばかりに大勢の老若男女が行き交い、道行く人の顔かたちや衣裳の多様さには、圧倒される思いだった。そして、記憶はなくとも”故郷”という懐かしさが、心をくすぐるのを感じた。
 農民や商人風の男たちが、野菜や商品を市に運ぶ荷車を引いている。それを邪魔そうに追い抜くのは貴族が乗った馬車だ。辺りをきょろきょろと落ち着きなく見回しているのは、着任したばかりの東国の使者だろうか。若い僧侶に声を掛けて笑い声を上げたのは、()(ふく)を着た漢人の女で、化粧もどこか西域風だ。濃い(ひげ)をたくわえた紅毛(こうもう)碧眼(へきがん)のソグド商人もいる。黒人を初めて見て驚きながら、考えてみればリョウ自身も胡服を着て三角帽をかぶったソグド商人の姿だった。
 この街では、辺境での異民族との戦など、誰も気にしていないのだろう。そう言えば、皇甫(こうほ)将軍は街の女たちが噂する人気者だったと聞いたことがある。異民族の軍勢を率いて(あん)禄山(ろくざん)が入京した時には、その珍しい軍装を一目見ようと、大勢の見物人で大通りが歩けないほどだったと聞いた。命をかけて戦っている兵士や軍のことも、見世物程度にしか思っていないのだろう。今の皇帝の元での平和な暮らしが続くうちに、街の人が大きく変わってしまったのか、それとも自分が子供だったのでこの町の多様性と賑わいに気付かなかっただけなのか、リョウにはわからなかった。
 そしてまた「暑い!」と思った。服の内側は、汗でびっしょりとなっている。よく見ると、自分のような厚手の服を着て歩いている人はほとんどいない。二十日ほど前に出てきたときの炳霊(へいれい)寺は、朝夕は火鉢が欲しいほどだったから仕方がないとして、まずは夏服を買わなくては、とリョウは思った。
「暑い夏には、貴族の家では、部屋に氷柱を立てます。虎や鳥の形に彫刻する家もありますが、石を彫れるリョウなら簡単にできるのではないですか」
 胸をはだけているリョウを見て、朱ツェドゥンが涼しい顔で笑った。ツェドゥンの茶色の吐蕃(とばん)服は、よく見ると肌が透けるほどの(しゃ)でできていて、リョウは思わず言った。
「自分だけ涼しい格好で、ずるいじゃないか」
「宮殿には、晴れた日でも屋根から雨を降らせる涼殿(りょうでん)と言われるものもありますよ」
「ツェドゥンの実家にもあるのか?」
「庭を眺めて涼むために、四方を開け放して、屋根から水を滴らせる自雨亭(じうてい)がありましたが、今はどうなっていることか。私には氷柱や自雨亭よりも、冷やした西瓜(すいか)の方が涼しげで良いですがね。さあ、着きましたよ、ここです」
 街へ入る西の門から半刻も歩いて、ようやくその屋敷はあった。四方を壁で囲まれた屋敷の門をくぐると、中庭があり、その先に瓦屋根の立派な家が並んでいて、リョウは開いた口がふさがらなかった。
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