一(六)

文字数 1,938文字

 その日の夕方、まずは景気づけにと小さな宴会が本堂横の広間で開かれた。
 明日から再開される大仏造立では、彫像の現場指揮は石工の頭領の哲が行い、人や資材の調達、資金繰りなどは()(こう)が行うと決まっていた。長安から運んできた食材のおかげで、食卓は久しぶりに賑やかだった。
 リョウが、ひき肉と野菜がたっぷり入った熱々の饅頭(まんじゅう)にかじりついていると、住職が話しかけてきた。
「リョウの夢は、腕のいい石工になることか?」
「子供の頃はそう思っていた。でも、夢っていうのは、もっとでかい、何か簡単には手が届かないようなものじゃないのか」
「それなら、お前の今の夢は何かな?」
「まだ分からない。ただ、皇甫将軍は、人がより良く生きられる世にしたいと言って、そのために命さえかけた。その生きざまを間近に見て、自分は何ができるのか、と考えるようになった」
「世のためとは大きく出ましたな。御仏を彫るのは、世のため人のためになるのではないですか」
「それも、よく分からない。石で仏を彫っても、何も変わらないかもしれない。ただ、一人でも俺の彫った石仏で心が(いや)されるなら、それはいいことだと思う」
「それは大事なことだ。大きな夢は持ち続けながら、自分が今できることを積み重ねていくことじゃ」
「それに石を彫っていると、不思議に心が穏やかになる。だから自分のためにも、石を彫り続けたいと思っている」
「リョウの心が平穏ならば、それは世の中にも貢献しているということです」
「どういうことだ?」
「世の中が良くなるということは、一人一人が、より良く生きるということです。百人いれば百通りの生き方がある。その一つ一つが少しずつ良くなれば、みんな良くなる。だからリョウの心が平穏になれば、それは世の中を良くしているということになる」
「そんな大げさなことじゃないけど。ただ、石に向かっていると、自分がそこに彫りこまれていくようで、それ以上でもない、それ以下でもない、ありのままを受け入れられるような気になって、心が軽くなる」
「ハハハ、それはたいしたものだ、高僧の域じゃな。岩壁に向かって何年も座り続けた修行僧もいるくらいだ」
「そう言えば、皇甫(こうほ)惟明(いめい)将軍の部屋には、何とか手で抱え上げられるくらいの丸い石が置いてあった。合戦の後には必ず、その丸い石を水で洗い、長い時間をかけて布で磨くのだと、副将の褚誗(ちょてん)から聞いたことがある」
「血塗られた手を洗い、野蛮な本能から抜け出すための儀式なのだろう。そもそも、書や絵、彫刻、音楽など芸術と言われるものには、心を整える働きがある。皇甫将軍が、ただ石を磨くのも、リョウが、ただ石を彫るのも、心を磨き、心を澄ますのだろうな」

 住職が離れると、朱ツェドゥンが、酒を手に近づいてきた。
「降格された(おう)忠嗣(ちゅうし)将軍に代わって、哥舒(かじょ)(かん)隴右(ろうゆう)節度使になりました。石堡(せきほ)城の戦いで功績を上げた隊長です。突騎施(テュルギシュ)の人で、母親は宇寘(うてん)(コータン)王国の人だと言われています」
「突騎施(テュルギシュ)と言えば、突厥(とっくつ)と同族の遊牧民ではないか」
「二百年前に西に逃れた突厥の十族の一つです。だから吐蕃(とばん)とは初めから敵対しているのです」
 朱ツェドゥンの言葉に、リョウは悟った。哥舒(かじょ)(かん)は吐蕃との戦に積極的なのだろう。吐蕃の貴族であり、唐との和平を目指している朱ツェドゥンとはそりが合わず、皇甫将軍が用意してくれた隴右(ろうゆう)節度使の宿舎に居づらくなって、この寺に来たのではないか。
哥舒(かじょ)(かん)だけではありません。昨年は、突厥(とっくつ)人の(あん)思順(しじゅん)が河西節度使に、吐蕃を破った高麗(こうらい)人の(こう)仙芝(せんし)が安西節度使につきました。これも李林甫が、自分と対立する漢人の貴族に武力を持たせないよう、蕃人(ばんじん)(異民族)を登用したからです。その前から(あん)禄山(ろくざん)平盧(へいろ)節度使と范陽(はんよう)節度使を兼任していたので、東北から西域までの軍事上の重要拠点は、すべて蕃将(ばんしょう)の節度使になりました」
 (あん)禄山(ろくざん)という名前は、リョウには初めて聞く名前だった。
「安姓ということはブハラ出身だ。その安禄山も、俺と同じソグド人の血を引くのか」
「安禄山は父親がソグド人ですが、母親は突厥(とっくつ)阿史徳(あしとく)氏の巫女(みこ)(シャーマン)です。もっとも、安姓は母親が再婚した男の姓で、もとは(こう)姓です」
「なんだって、康姓なら俺の親父と同じだ。サマルカンドの出身ということじゃないか」
「まったくこの国では、さまざまな民族が入り交じって暮らしていますね。それが唐の良い所なのですが」
 吐蕃(とばん)人の父と漢人の母を持つ朱ツェドゥンがしみじみ言ったが、それはソグド人の父と漢人の母を持つリョウも、同じ思いであった。そういう自由な空気の唐を守ろうとした皇甫惟明の思いを継ぐためにも、あの大仏はなんとしても完成させなくては、とリョウは強く思った。
(「未完の摩崖仏」おわり)

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