二(三)

文字数 1,220文字

 その翌朝、リョウは早速、哲や健と一緒に、職人の宿舎に向かった。健は、リョウより十歳ほど上に見えた。背は低いが、いかにも石工というがっしりした身体つきだ。
「まったく、頭領は何を考えているんだか。よりによって、俺を子守なんかにしやがって」
 リョウや哲に聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声でぼやいている。「子守」と言われて反論したくなったリョウだが、なにしろ独り言のようでもあり、哲は何も気にしていない。しかも天気のことから飯のことまで、次から次にぼやき続けているので、リョウも気にしないことにした。哲が「あいつは、腕がいい。荒くれの職人をまとめるには、腕がいいのが一番だ」と言ったのだから、信頼するしかなかった。 

「おーい、聞いてくれ。ここに居るのは、今日から、お前たちと一緒に働いてもらう健とリョウだ」
 職人宿舎の入口で大声を出した哲の声に、皆が振り向いた。中から、まとめ役なのだろうか、少し年配の石工が肩を揺すって出て来た。
「一緒にって、俺たちの下働きをでもしてくれるのか」
「いや、お前たちは、長安でバラバラに集められた職人だ。ここでの仕事に慣れている健が、今日からお前たちの頭だ」
「こっちは頼まれた仕事をきちっとやってんだ。何で、そんな奴の手下になる必要があるんだ」
 腕っぷしも強そうなその男は、一緒の小屋で暮らすうちに自然にこの集団のまとめ役になったのだろう。面倒なことにならなければ良いがと心配するリョウをよそ目に、哲が健を指差した。
「そう言うなら、石刻の腕をこの健と競ってもらおうか。お前も石工なら、文句はあるまい。ほかにも腕自慢の奴がいたら、健に挑戦してもいいぞ」
 そう言われても、他に手を上げる者はいなかった。健をじろりと見た男は、口にくわえていた楊枝をペッと地面に吐き捨てた。
「喧嘩を売ろうっていうなら、買ってやろうじゃないか。石板でも石仏でもなんでもいいぞ」
 身体が小さくて哲の後ろに隠れているように見えた健が、スッと前に出て地面を指差した。
「ちょうどここに石板が置いてある。時間も無いから、これでいいだろう」
 健が拾い上げた五寸(約16cm)四方の黒い石板は二枚あり、そのうちの一枚には右隅に「天」という字が線彫で既に彫ってあった。興味深そうに周りを囲んできた宿舎の職人たちに健が言った。
「こりゃあ、誰かの彫りかけだな。このへたくそな字を見りゃ、練習の途中だろう。ということは、千字文(せんじもん)の最初の『天地(てんち)玄黄(げんこう)』を彫りかけて、一文字で才能がないとあきらめちまったんだろうな」
 リョウは、「千字文」という響きに懐かしさを覚えた。それは、(おう)義之(ぎし)の書から千の文字を集めて作ったと言われるものだ。祖父の家にあった「千字文」の刻本を手本に、母や祖父から漢字を習った日々が脳裏をよぎった。「天地(てんち)玄黄(げんこう)」は、天は黒く、地は黄色の意味で、後に「宇宙(うちゅう)洪荒(こうこう)」、宇宙は混沌(こんとん)として広大である、と続く。
 健は、その天の字が彫られた石板を、男に渡した。
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