二(五)
文字数 1,234文字
話が付いたので、引っ越し荷物を取りに戻る道すがら、リョウは健に聞いた。
「あの変わった字は何だ?」
「ああ、あれか。秦 の始皇帝 が、全国の文字を統一するために定めた篆 書 というやつだ。今でも、重要な文書の押印は篆書体 だから、朝廷の文字を扱う石刻師なら、誰でも知っている。それにしても、頭領もこんな面倒なことを仕組みやがって」
いつものぼやきに戻った健のその言葉が引っかかった。
「仕組んだって、あれは計画的だったのか?」
「当たり前だろう、そんなに都合よく石板が二枚、出てくるものか」
「なんだと!一枚には天の一字が既に彫ってあったが、あれもわざとか?」
「そのくらいの差がないと、圧倒的に勝ったように見えないからな。わざと下手くそな字で彫っておいた」
「でも、石板じゃなくて、石仏で勝負しようと言われたら、どうしたんだ?」
「俺は石碑の方が得意だから、そのときはリョウに代わってもらうって、まったく頭領は人が悪い」
そう言って健はぼやいたが、本当は石仏を彫らせても健は凄腕 なのだろうとリョウは思った。前を行く哲が、おかしそうに肩を揺すった。
「濃墨 や紙がサッと出て来ても、誰も不思議に思わないくらいにみんな驚いていたな。あとは任せたから、作業をはかどらせてくれ」
その日、健と一緒に職人の宿舎に移ったリョウは、夕方、仕事から戻ってきた奴隷たちの小屋を訪ねた。入り口に立つなり、リョウはその異臭に顔をしかめた。尿の匂いだった。
「なんだ、これは。お前たちは、小屋の中で小便をしているのか」
傍に居た奴隷の一人が答えた。
「夜は小屋に鍵をかけられて、外に出られない。だから、我慢できない奴は、仕方なく中でする」
「誰が鍵を掛けろなんて、言ったんだ」
「俺たちをここへ連れて来た男が命じて、毎日、夜になると寺男が来て人数を数えて、鍵をかけていく」
それを聞いたリョウは、驚いて呂浩 のもとを訪ねた。
「呂浩、奴隷を小屋に閉じ込めて鍵まで掛けているのはどういうわけだ。あんな小便臭い小屋では、しっかり寝ることもできないじゃないか。それに、変な疫病でも流行ったらどうするんだ」
「いや、あいつらを連れて来た手下が言うには、あの中の何人かは、連れて来る途中に脱走しかけたっていうんだ。逃亡奴隷なんか、殺してもいいんだが、なにしろ人手が欲しいので連れて来た。そもそも、正式に買って役所に届けた奴隷だけでなく、闇で買った奴隷もいて、そいつらは端 っから逃亡奴隷らしい。質 が悪いから、夜は小屋に閉じ込めている」
「この黄河を泳いで逃げられる奴なんか誰もいないだろうに、まったく何を考えているんだ。あいつらの食事は、職人の残り物だっていうし、犬や猫でもあるまいし、あの状況でちゃんと働くはずがないだろう」
「リョウも自分が奴隷だった時の恨みは忘れていないようだな」
「そんなんじゃない!」
そんなやり取りはあったが、リョウの剣幕に呂浩も少し慌てたようで、奴隷の処遇も哲とリョウに任せられることになった。
(「篆書の刻印」おわり)
「あの変わった字は何だ?」
「ああ、あれか。
いつものぼやきに戻った健のその言葉が引っかかった。
「仕組んだって、あれは計画的だったのか?」
「当たり前だろう、そんなに都合よく石板が二枚、出てくるものか」
「なんだと!一枚には天の一字が既に彫ってあったが、あれもわざとか?」
「そのくらいの差がないと、圧倒的に勝ったように見えないからな。わざと下手くそな字で彫っておいた」
「でも、石板じゃなくて、石仏で勝負しようと言われたら、どうしたんだ?」
「俺は石碑の方が得意だから、そのときはリョウに代わってもらうって、まったく頭領は人が悪い」
そう言って健はぼやいたが、本当は石仏を彫らせても健は
「
その日、健と一緒に職人の宿舎に移ったリョウは、夕方、仕事から戻ってきた奴隷たちの小屋を訪ねた。入り口に立つなり、リョウはその異臭に顔をしかめた。尿の匂いだった。
「なんだ、これは。お前たちは、小屋の中で小便をしているのか」
傍に居た奴隷の一人が答えた。
「夜は小屋に鍵をかけられて、外に出られない。だから、我慢できない奴は、仕方なく中でする」
「誰が鍵を掛けろなんて、言ったんだ」
「俺たちをここへ連れて来た男が命じて、毎日、夜になると寺男が来て人数を数えて、鍵をかけていく」
それを聞いたリョウは、驚いて
「呂浩、奴隷を小屋に閉じ込めて鍵まで掛けているのはどういうわけだ。あんな小便臭い小屋では、しっかり寝ることもできないじゃないか。それに、変な疫病でも流行ったらどうするんだ」
「いや、あいつらを連れて来た手下が言うには、あの中の何人かは、連れて来る途中に脱走しかけたっていうんだ。逃亡奴隷なんか、殺してもいいんだが、なにしろ人手が欲しいので連れて来た。そもそも、正式に買って役所に届けた奴隷だけでなく、闇で買った奴隷もいて、そいつらは
「この黄河を泳いで逃げられる奴なんか誰もいないだろうに、まったく何を考えているんだ。あいつらの食事は、職人の残り物だっていうし、犬や猫でもあるまいし、あの状況でちゃんと働くはずがないだろう」
「リョウも自分が奴隷だった時の恨みは忘れていないようだな」
「そんなんじゃない!」
そんなやり取りはあったが、リョウの剣幕に呂浩も少し慌てたようで、奴隷の処遇も哲とリョウに任せられることになった。
(「篆書の刻印」おわり)