十九(二)

文字数 1,333文字

 (そん)逸輝(いつき)が言うには、土門関を掌握した常山太守の(がん)杲卿(こうけい)は、そのことを皇帝に報告するため、土門関の守将、()欽湊(きんそう)の首級と、捕虜にした安禄山軍の高官二名を長安に送り届けるよう、長男の(がん)泉明(せんめい)に命じた。そこで、孫逸輝も、顔泉明と共に太原(たいげん)に向かったのだという。
 しかし、太原の(いん)(長官)である(おう)承業(しょうぎょう)は、顔季明らを晋陽に留め置き、代わりに自分の部下に李欽湊の首級と報告書を持たせ、長安に行かせた。
「土門関奪取の功績を横取りしたい王承業が、報告書を偽造したのだろう。その証拠に、王承業にはたっぷり褒美が出され、顔杲卿にはそのおこぼれ程度だったらしい」
 リョウは、唐側の内輪もめで、自分の話がうやむやになったことに、思わずホッとした。その数日後、今度は(でん)為行が、洛陽から逃れて来た五竜朋の仲間から、顔杲卿らのその後の話を聞いて来た。
 顔杲卿挙兵のわずか八日後、安禄山の盟友、()思明(しめい)将軍が常山城を猛攻した。顔杲卿は太原に援軍を要請したが、王承業は様子見して応じず、昼夜にわたる激戦の末、正月八日に常山は落城した。その際、史思明は顔季明の首に刃を突き付けて顔杲卿に降伏を迫ったが、杲卿はそれを拒否、季明はその場で殺され、将兵一万は全滅、杲卿も捕らえられて洛陽に送られた。その後、杲卿は洛水にかかる橋に縛り付けられて、手足をバラバラに斬る残酷な刑で殺されたという。
 リョウは、顔季明が「安禄山のもたらした自由な風を南北にも広げたい、そうすればこの国はもっと良くなる」と言っていたことを覚えていた。その季明が、事もあろうに安禄山の軍に殺された。一度起きてしまった戦争は、個人の意思を踏みにじりながら、あたかも戦争自身が意思を持つように拡大していく、リョウはその恐ろしさに慄然(りつぜん)とした。

 顔杲卿は殺されたものの、顔杲卿と顔真卿が連携して反旗を(ひるがえ)したという事実は、河北諸郡の漢人官僚や将兵を勇気づけた。協力すれば、安禄山の拠点がある范陽(はんよう)と洛陽を結ぶ街道を分断し、安禄山を孤立させられると気づいたからだ。
 彼らは各地の安禄山軍の守将を殺し、いったんは河北の過半数の郡が唐軍側に付いた。その後も、河北の戦況は奪ったり、奪い返したりの一進一退を続けている。太原でも、安禄山に替わって河東節度使に任命された()光弼(こうひつ)将軍が、精鋭を率いて常山を奪回し、来援した(かく)子儀(しぎ)将軍と共に、三か月にわたり史思明と死闘を繰り広げていた。

 そんな話が聞こえてくるのに、長安の人々はどこか遠い国の出来事のように振舞っていることが、リョウには不思議だった。朝廷は永遠に安泰で、安禄山の反乱などすぐに鎮圧される、長安に居れば安全だ、と思っているのだろう。昨冬、二十万の大軍を潼関(どうかん)に送り出してからは、何ごともない平穏な日々が続いていた。
 六月の雨の日、リョウは、祆教(けんきょう)(ゾロアスター教)寺院に(かくま)っていたキョルクに、内密に会いに行った。キョルクは苦々しい顔で言った。
「勇猛な()光弼(こうひつ)を味方に引き込むこと、進軍するときは東都の洛陽だけでなく北都の太原も占拠することなど、私は多くの進言をした。しかし、誰が傍で牛耳っているのか、安禄山は聞く耳を持たなかった」
「持つべきは良き将だが、その良き将の言葉を聞き分けられない大将は、ただの愚将ということか」
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