十三(二)

文字数 1,467文字

 夏になる少し前、(あん)禄山(ろくざん)が長安に来るという話が聞こえてきた。
 安禄山は昨年、河東節度使も兼務となり、范陽(はんよう)節度使、平盧(へいろ)節度使と合わせて、黄河の東、洛陽の北の諸州を全て傘下に収めていた。営州を拠点とする平盧節度使の兵は三万七千五百人、軍馬五千五百頭、幽州(北京)を拠点とする范陽節度使の兵は九万一千人、軍馬六千五百頭、そして太源を拠点とする河東節度使の兵は兵五万五千人、軍馬一万四千八百頭である。その全部を合わせると、兵士約十八万人、軍馬二万六千頭余りの大軍勢になる。全唐軍の三分の一以上を安禄山が支配することとなっていた。
 李林甫の蕃将(ばんしょう)(異民族の将軍)優遇策があったにせよ、皇帝と楊貴妃の安禄山好みがあったにせよ、さすがにこれはやりすぎだという意見が宮中に充満している、そう教えてくれたのは朱ツェドゥンだった。その不満の先頭にいるのは、最近病気がちの李林甫より皇帝の信認が厚くなっている(よう)国忠(こくちゅう)だという。楊国忠とすれば、自分が出世できたのは楊貴妃のおかげであると百も承知しているが、権力をつかんだ今となっては、皇帝と楊貴妃の安禄山びいきは邪魔でしかない、というのが朱ツェドゥンの見立てだった。安禄山に謀反の恐れありと内奏までしているらしいが、まったく取り上げられないのだという。
 怪しい空気が世の中に流れてきたことを心配して、リョウは五竜(ごりゅう)(ほう)の情報網で何かわからないか、「鄧龍(とうりゅう)」で()いてみた。すると、(とう)龍溱(りゅうしん)から驚くべき話しがあった。
「リョウの親父さんとも因縁のあった吉温(きつおん)が、最近は安禄山と懇意にしていて、河東節度使の副使として安禄山を支えている」
 吉温と言えば、()林甫(りんぽ)の下で(ちょう)九齢(きゅうれい)派や皇太子派を陰謀で駆逐し、次にはその李林甫を裏切って、(よう)国忠(こくちゅう)の下で李林甫の側近を陥れた男である。それが、今はその楊国忠と対立し始めた安禄山の腹心になっている。世間の評判は、「敵を陥れるためなら拷問も(いと)わない残忍な男」、「次々と主を替え、機を見るに敏で誠実さのかけらもない男」ということになっている。しかし、リョウは別の情報も知っている。
「栗の木の下で見つけた書状を見れば、吉温は李林甫の手先になる前から、(ちょう)萬英(まんえい)の子飼いとして、様々な工作をしてきた男だとわかる。世間の噂とは別に、吉温という男は、一貫して趙萬英に尽くしている、しかもそうとは見せないで、汚れ役を一手に引き受けている、そうみることはできないだろうか」
「もしそうだとすれば、吉温という男は、ものすごく優秀な、忠義の男かもしれないな」
 (とう)龍溱(りゅうしん)の言葉にうなずきながら、リョウは考えていた。その視点で事実関係を見直してみると、安禄山の腹心となった吉温も、実は趙萬英の意向を受けていると言えないか、だとすれば趙萬英は次に何を考えているのか。今までのやり方を見れば、懐に入って安禄山を陥れること、あるいは敵対する楊国忠を陥れること、どっちも可能性がありそうだった。傍で聞いていた(とう)龍恒(りゅうこう)が言った。
「どちらにしても、当分は、安禄山、楊国忠、趙萬英の三つの力がどう動くか、注視しなくてはいけないな。ただ、五竜朋の内部では、趙萬英を推す声が強い」

 安禄山が入京するという日の夕刻、リョウは東市の近くの通りで、春明門から親仁坊の屋敷に向かう一行を待ち受けた。いろいろ話題の絶えない安禄山を一目見ておきたかった。数年前には一万を超える軍勢を引き連れて入京し、それを見たい人で大通りがあふれかえったという。しかし、それはある種の示威(じい)行動だったのだろう。その日、進んできたのは、百人にも満たない近衛兵に囲まれた安禄山だった。
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