十五(三)

文字数 1,569文字

 「青海邸」の商売も順調に進み、(てい)との生活も落ち着いてきたところで、リョウは、今は幽州(ゆうしゅう)(北京)に居るアユンを訪ねたいと思った。そこは安禄山の本拠地であり、突厥(とっくつ)で家族同然に暮らしたアユンの姉ソニバや、テぺ、バズもいる。思いついたら居ても立ってもいられなくなり、リョウは伯父の(とう)龍恒(りゅうこう)に相談した。
「それなら、(そん)逸輝(いつき)がまもなく北の旅に出る。道案内がてら一緒に行ったらどうか」
 孫逸輝は、石の目利きで、自ら(すずり)を彫る硯師(すずりし)でもある。一年中、名石を探しに国内を旅しているが、実はそれは「鄧龍(とうりゅう)」のための情報収集の旅でもあることを、リョウは知っていた。
(よう)国忠(こくちゅう)は、吐蕃(とばん)(チベット)を大破した哥舒(かじょ)(かん)と結んで、安禄山の反意をたびたび上奏している。一方の安禄山は、自ら(くだ)した契丹(きったん)(けい)の軍、それに離反した突厥(とっくつ)阿布思(アフシ)の兵まで吸収して、いまや兵力およぶものなしと言われる。今のうちに、北の情勢を見ておくのも悪くないだろう」
 鄧龍恒は、そう言って快諾してくれた。長安から范陽(はんよう)郡までは二千里(約千キロ)あり、馬を使っても長旅になる。ただ、商売を順調に広げてきた「青海邸」には、(せき)傳若(でんじゃく)の指示で多くのソグド商人が働いており、馬の目利きや調教は進がやってくれる。春の花が咲き誇っている中、「青海邸」の人々と(てい)に留守を頼み、リョウは(そん)逸輝(いつき)と共に旅に出た。キョルクからは安禄山への紹介状や家族への手紙も預かっていた。

 普段は「鄧龍」を留守にしていることが多い(そん)逸輝(いつき)のことはよく知らなかった。十歳ほど年上のようだが、書に関わる仕事柄か、詩や書に関する知識も豊富なことに驚いた。やや長身で痩せているが、その体に似合わない、がっちりした肩と太い腕を持っている。(すずり)石を削ることで生まれた強さなのだろう。国中を旅して得た様々な話を聞けるのは楽しく、孫逸輝も連れができてうれしいのだろう、二人でいろいろな話をした。
「硯にする石は、表面に突起がある特殊な石だそうだな」
鋒鋩(ほうぼう)のことだな。良い石を()ぐと目に見えない細かい突起が立ってくる。それで墨が()れるのだ。俺なんか、その鋒鋩(ほうぼう)をさわりすぎて中指の指紋が無くなった。ただ、その良い石を探すのが大変だ。俺は、遠くから山肌を見ただけで、その沢にどんな石が転がっているか想像できるようになった。黄河の南方には良い石があるぞ」
(とう)龍恒(りゅうこう)の指示で地方の情勢を探るのに、石探しの旅は通行証をもらう良い理由になるということだな」
「それだけが目的じゃない。この大地の底から生まれた硯石を彫っていると、自分が太古の昔につながる様な陶酔感に包まれる、俺はそれが好きなんだ。だから俺は、自分のことを創硯師(そうけんし)だと言っている」
「そうけんし?」
「ああ、(すずり)(つく)る専門家のことだ。山や川で硯に適した石を探して切り出すところから始めて、それを彫り、磨いて、硯に仕上げる。自然の中からこの世にたった一つの硯を創り出すから創硯師(そうけんし)だ」
「なるほど、俺に書を教えてくれた王爺さんは『創』という字は両刃の剣のことだと言っていた。“リ”(刀)で傷つけるという意味と、新しいことを始めるという意味の両方に使われる、満身創痍(そうい)とか創造とか」
「そのとおりだ。傷つけることと、新しく作り出すことに、同じ創という字を充てるのは偶然ではない。壊さなければ、新しいものは生まれないということだ。職人としての(すずり)()は何人いても、創硯師(そうけんし)と言えるのは長安に俺一人だ。リョウは、何が得意だ?」
「俺は、なんでも彫るが、今までで一番好きな仕事は、俺にしか作れない観音様を彫ったことだ」
「それは良かった。リョウは優秀な石工だと聞いた。しかし売れる灯籠を造るだけではただの職人だ。石工と石刻師の違いは、誰にもまねのできないものを創り出す力と仕事への誇りを持てるかどうかだ。リョウも、専門家としての誇りを持つなら、石刻師と名乗るがいい」
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