十七(一)

文字数 1,397文字

 リョウが雄武城の(あん)禄山(ろくざん)と平原城の(がん)真卿(しんけい)を訪ねてから、一年が経っていた。
 (てい)もすっかり元気を取り戻し、六月には、リョウと婷の間に男の子が生まれた。ソグド語の愛を意味する愛淑(アスク)と名付けられたその赤子の泣き声で、「青海邸」はさらに活気づいたようだった。
 しかし、世の中はますます落ち着かなくなっている。五竜(ごりゅう)(ほう)の情報網や安禄山邸のキョルク、あるいは朱ツェドゥンらから聞こえてくる情報では、(よう)国忠(こくちゅう)と安禄山の関係はいよいよ退()()きならない事態になっているようだった。
 昨年(天宝十三載754年)暮れ、安禄山は、収賄の罪で地方の副官に左遷された吉温のために、それが楊国忠の讒言(ざんげん)による冤罪(えんざい)であると訴えた。しかし、いつもは安禄山の味方だった皇帝は、それを却下した。リョウは、その頃が皇帝の安禄山に対する態度が変わった、あるいは亡き李林甫の影響が一掃され、楊国忠が朝廷を支配するようになった転換点ではないかと見ていた。
 四月には、謀反の疑いの訴えがあったと、親仁(しんじん)坊にある安禄山の屋敷が捜索された。そこでは何も出なかったが、それも楊国忠の安禄山に対する露骨な挑発で、「早く謀反を起こせ」と誘っているようなものだった。その裏には、安禄山が謀反を起こしても、漢人が多くを占める地方の役人は誰も従わず、皇帝を守る禁軍十万と哥舒(かじょ)(かん)の河西・隴右(ろうゆう)の十五万の軍をもってすれば、たちまち鎮圧して、安禄山を殺せるという読みがあるのだろう。
 その後、安禄山の屋敷を訪れた客人が楊国忠の手の者によって捕らえられ、送られた御史台(ぎょしだい)(司法機関)の監獄で密かに殺されるという事件が起こった。殺害に至った真相は不明だが、楊国忠と安禄山の確執を焚きつけ、両者を同時に排除したい趙萬英の仕業のように見えた。最近では、リョウも巻き込まれることを警戒して、キョルクに会いに安禄山の屋敷を気軽に訪れることはできなくなっていた。リョウは、安禄山がこの執拗な長安の嫌がらせに、冷静に耐えられるかどうか心配だった。

 そんな折、リョウは、タンを通じて唐興寺から依頼を受けていた観音様が彫りあがったので、届けに行った。タンが、依頼主の希遠(きえん)という僧侶を紹介してくれた。タンの話では、希遠は相当に高位のお坊さんのようだが、偉ぶった所はなく、いつも「悲田院」の子供たちと遊んでいるのだという。「悲田院」は、貧しい人や身寄りのない子供を救済するために作った施設で、その入り口に観音様を置きたいという話があるとタンから聞き、リョウも喜んで観音様を寄進することにしたのだった。 
 しばらく観音像を眺めていた希遠が言った。
「この観音様のお顔は、彫りの微妙な深さで陰陽が良く出ていますね。下から見れば微笑んでいるように見えるし、上から見れば泣いているように見えます」
「ありがとうございます。俺はただ心に浮かんだ観音様を彫っているだけで、泣くも笑うも、結局は見る人の心を映すのだと思っています」
 痩せて背が高く、しわばかり目立つ顔に眠っているような細い眼と白い顎鬚(あごひげ)をたくわえた希遠は、いつもにこやかに笑っている。「悲田院」の子供らも、唄を歌いながら希遠を取り囲んで遊んでいる。この人になら、悩みを聞いてもらえるかなと思ったリョウは尋ねた。
「自分の親しい人たちが、二手に分かれて戦をしようとしている。自分はどうすれば良いのか悩んでいるが、仏様はそういうときには、どう答えてくれるのだろう」
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