二十(七)

文字数 1,555文字

 皇太子は、密かに天幕から出て、皇帝がいる馬嵬(ばかい)駅の駅楼(えきろう)に移動した。その間に、リョウは哲ら石工の軍団十数名を連れて、シメンとイルダが捕らえられている場所に急行した。日の長い季節とはいえ、もうすぐ暗くなる。監視しながら待っていた進が、ホッとした顔を見せた。
「ようやく来たか。シメンはあそこにいる」
 進が指差した先には、シメンとイルダが木につながれている。長安での夜、酒宴と勘違いした韓国夫人と一緒に居て、そのまま着の身着のまま逃れて来たのだろう。泥で薄汚れているが、胡旋舞(こせんぶ)の衣裳を着ていた。近くに赤ん坊が寝かされている。イルダとシメンが育てている春蘭だろうか。リョウたちは、見つからないよう三十歩(約50m)の距離まで近づいた。
 赤ん坊が泣き始めた。その泣き声は、だんだん激しくなる。「まずい、大きな声を出すと監視がばれる、子供が殺される」、リョウは走りながら弓に矢を(つが)えた。シメンが必死に何かを見張兵に訴えている。しかし、見張兵は、かまわず剣を抜いた。
 リョウが立ち止まり、狙いを定めて弓を引き絞った先に、夕陽にキラリと光るものが見えた、と思うやシメンが跳び上がり、見張兵の首を真一文字に斬り裂いた。アッと驚いたリョウは、林の中をさらに走った。進たちも続いてくる。「あれは、シメンがいつも腰に下げていた短刀だ、どこかに隠し持っていたのだろう」、走りながらリョウは思った。その先で、シメンがイルダの縄を切り、赤ん坊を抱えて逃げ始めた。
「シメーン、こっちだ!」
 大声で叫んだ声が聞こえたのか、シメンとイルダは、こちらに向きを変えて走り始めた。後ろから騒ぎに気付いた五、六人の見張兵が追ってくる。シメンらに当たるので矢を放てず、遠矢を打つには頭上の木立が邪魔だ。何としても、敵兵に追いつかれる前に二人を確保したかった。
 見張兵らは、リョウたち武装した男が駆けて来るのに気づくと、大声で仲間を呼び、弓を構えた。放たれた矢がバラバラと降る中を、シメンとイルダは走り続けた。敵は二十人ほどに増え、立て続けに矢が飛んできた。「もう少しだ、頑張れ」、そう思ったリョウとシメンの目が合った。そのとき、一本の矢がシメンの肩に刺さり、シメンはつんのめりながらも、前に進もうとした。しかし、二本目が足に刺さり、シメンはたまらず倒れ込んだ。それでも赤ん坊はしっかり抱いている。気付いたイルダが、後ろからシメンを抱き起こそうとしたとき、何本もの矢がイルダの背に突き刺さった。
 シメンとイルダとすれ違いながら、リョウたちはさらに前に走り、リョウの号令で一斉に矢が放たれた。すぐに、乱戦になった。(りゅう)涓匡(けんきょう)の部隊と言えば、突厥(とっくつ)との戦いで実戦慣れしている手練(てだ)(ぞろ)いだ。それでも石工の若者たちは、戦闘経験のある(でん)為行(いこう)、哲、健、進の四組に分かれ、訓練通りに固まって、互いを助けながら敵と斬り結んだ。
 リョウも加わり互角の戦いに持ち込んだが、敵は隠密に皇太子を監視していた部隊だ。これだけ大騒ぎになれば、もはやその意味がない。駆けつけて来た隊長の声が響き、けが人を連れて、全部隊が林間から走り去った。

 リョウは、倒れたシメンたちのもとに走って戻った。シメンが、血濡れた舞服のまま、片手に赤ん坊を抱き、膝の上にイルダの頭を乗せ、髪をなでていた。
「イルダ、また一緒に踊るんだから、眼を開けて」
 シメンは、イルダの舞服をつかんで揺すった。
「イルダ、私を一人にしないで……」
 イルダが薄く目を開けて、シメンが抱いている赤ん坊を見た。
「一人じゃない……」
 そう言って静かに目を閉じた。それが最後だった。
「イルダ、()かないで、イルダ、戻って来て!」
 リョウがシメンの手から、そっと赤ん坊を抱きあげると、シメンはその全身でイルダを抱きしめて泣いた。
(「馬嵬(ばかい)の変」おわり)
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