十二(二)

文字数 1,400文字

 その後も、リョウはときどきシメンの住んで居る韓国夫人の屋敷を訪ね、またシメンンも「鄧龍」や「青海邸」の店に顔を見せて、積もる話をした。胡旋舞の話になると、シメンは瞳を輝かせた。顔に傷のあるシメンが踊りの名手になっていることなど想像もしていなかったリョウは、その頬の傷にそっと触れた。祭りの夜にさえはっきり見えた傷が、近くで見れば思いのほか薄くなっていたのでホッとした。
「これはシメンが十歳の時の傷だ。俺のせいだった」
「心配しないで。化粧で目立たなくできるし、私の好きな人は、この傷のことなど全然気にしないから」
 男役で踊るには、その方が迫力があるからと、わざと目立つ様に化粧筆で傷を書き込むのだと言ってシメンは笑った。その「好きな人」が、舞姫のイルダだと聞き、リョウは何と答えて良いかわからなかった。
 シメンの話を聞き、リョウの話をし、二人で「青海邸」や「鄧龍」で過ごし、たまには街中で一緒に団子を食べ、そういう当たり前の生活をしながら、少しずつ時間をかけて二人は長い空白を埋めていった。長安城の東南角にある曲江(きょっこう)池に寒梅を見にでかけ、西明寺の牡丹を楽しみ、もう奴隷ではないことをあらためて実感していった。それでもシメンはポツリと言った。
「ああ、突厥(とっくつ)の村で兄さんや悦おばさんと暮らした頃が懐かしい。毎日グクルや羊の世話をして、あの村でのことには嫌な思い出はないな。兄さんは、武人の訓練や戦闘で大変だったろうけど」
「俺も、草原に広がる朝焼けとか、ゲイックやドムズ、アユンとか、懐かしくてしょうがない。アユン以外は死んじゃったけど」 
 アユンという言葉に、シメンの眼が一瞬、遠くを見た。

 それから半年、季節は夏から秋に向かっていた。初めて長安に着いた日から二年以上が経っている。元宵(げんしょう)観燈(かんとう)の夜にリョウを襲ったのは、「八郭(はっかく)(てい)」に飼われている無頼漢で、その頭はリョウが倒した()果映(かえい)の弟、()刺映(しえい)だろうという情報が入っていたが、その後の動きはないので、放っておくことにした。
 シメンにも会え、ようやく生活も落ち着いてきたところで、リョウは、ずっと気になっていたことを実行に移すことにした。二年前、長安に来る途上で石を積んだ荷車が悪路で苦労しているところを、リョウが助けてやった。そのときの初老の御者は、(がん)真卿(しんけい)の石工の(しゅう)だと名乗り、「いずれ、主人も長安に戻るから、そのときは屋敷に寄ってくれ」と言ったのだった。
 しかしその後、いったん顔真卿は殿中(でんちゅう)侍御史(じぎょし)に復帰したものの、すぐに河南(かなん)採訪(さいほう)判官として地方に出され、昨年の暮れに、また侍御史として長安に戻り、三月には兵部員外郎になったと聞いていた。今度こそ長安の屋敷を訪ねられると思い、(せき)(りょう)と名乗ってあらかじめ訪問を知らせていたのだった。
 皇城にほど近い坊にある顔真卿の屋敷は、何の飾りけもない古びた塀で囲まれていた。しかし、塀の内も外も(ちり)一つなく掃き清められていて、いかにも質実剛健で知られる人の屋敷という風格があった。案内を請うとまもなく、初老の男が現れた。二年前に会った石工の秀だった。
「その節は世話になった。よく来てくれた」
「あの時は、失礼しました。高名な顔真卿様のことも知らずに、ただ、赴任先に石板まで運んでいく、変わった貴族がいると思って」
 そう笑い交わしながら屋敷の中の作業小屋に向かう間にも、多くの石碑用の石が無造作にそこら中に置いてあるのにリョウは驚いた。
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