十九(三)

文字数 1,423文字

 ずうっと祆教(けんきょう)(ゾロアスター教)寺院の隠し部屋から出ておらず、少し痩せたように見えるキョルクは続けた。
「この戦は、大義を失った時に負けが決まった」
 (あん)禄山(ろくざん)は負けどころか、洛陽で皇帝に即位した。それでも負けなのかとリョウは()いた。
「私の提言どおりに進めたら、漢人も遊牧民も一緒になった新しい政治ができたはずだった。しかし、安禄山は、この乱の意義を朝廷対謀反人の戦いに変えてしまった。殺されないと思っていた人質の(あん)慶宗(けいそう)が殺され、逆上した安禄山が陳留と洛陽で虐殺を繰り返し、そうかと思うと(がん)杲卿(こうけい)がだまし討ちで安禄山の将兵を殺し、反撃されて自分も殺される。安禄山も、楊国忠も、いざ戦いが始まれば簡単に勝てると思っていた。互いの誤算と誤算が重なって、戦が泥沼になり、誰も引き返せなくなった」
「だから負けなんだな。戦争ってやつは、始めるのは簡単だが、やめるのは難しい」
「やめられるのは、どちらかが全滅するか、明らかに負けを受け入れた時だ。だから虐殺も辞さないのだ」

 膠着(こうちゃく)状態のように見えていた事態が、突然、大きく動いた。
 潼関(どうかん)の東で戦闘があり、唐軍が全滅したらしいという噂が流れ、長安の街がざわついてきたのだ。
「いくらなんでも、それは無いだろう」
 そう言って情報収集していた(とう)龍恒(りゅうこう)が、一門の者を非常招集したのは六月十二日の夜だった。
「四日前、潼関にこもって安禄山軍と対峙していた哥舒(かじょ)(かん)が、陛下の強い命令を断り切れずに、軍勢を潼関から出して安禄山軍に戦いを挑んだ。結果を検分に行った宦官(かんがん)が戻って、負けを報告した」
 鄧龍恒の悲痛な声に続いて、(でん)為行(いこう)が言った。
「戦の勝敗は数だけでは決まらない。潼関という天然の要害から出た唐軍が、百戦錬磨の安禄山軍に負けるのは火を見るより明らかだ」
 (そん)逸輝(いつき)が、宮廷に潜り込んで調べてきた情報を伝えた。
「実は、その前に朝廷で不思議な動きがあった。哥舒翰が潼関から出撃したのは、陛下の執拗で強い命令があったからだが、その命令書を書かせたのは言うまでもなく(よう)国忠(こくちゅう)だ。誰かが楊国忠に、『安禄山の大義名分はあなたを排除することだ。このままでは、蕃将の哥舒翰は安禄山と呼応して、あなたを殺すために長安へ引き返してきますよ』と(ささや)いたのだ。それで心底驚いた楊国忠が、哥舒翰を遠ざけるために、出兵を強く促したという話だ」
 それを聞いてリョウは、ずうっと考えていたことの答えを見つけたような気がした。
「これで合点がいく。楊国忠に哥舒翰を潼関から出撃させるよう囁いたのは、誰あろう、(ちょう)萬英(まんえい)に違いない。趙萬英は、東の哥舒翰、西の安禄山と、巨大になりすぎた両方の蕃将(異民族の将軍)を戦わせて、双方を弱体化し、漢人中心の唐軍を再編してその精鋭を配下に置けば、この国を掌握できると考えている」
「もしリョウの言う通りなら、趙萬英に肩入れしている『黒龍』や『西胡屋』の手勢も動くかもしれない」
 田為行が、苦々しげに言ったのを、鄧龍恒が引き取り、皆に指示した。
「ともあれ、哥舒翰が大敗したのなら、今にも安禄山軍は長安に押し寄せるだろう。石工たちにはすぐに武装させて、リョウが指揮をとれ。敵の狼藉から街を守り、家族を逃がせるように準備するのだ」
「わかった。『飛龍』に居る哲と健にも、一緒に動くように頼む。進たち『青海邸』の者で戦える者も一緒だ。ただ、ソグド商人は顔立ちで安禄山軍と間違われる恐れがある。隊商(キャラバン)の馬車で長安の外に逃がすから、それに大事な財貨を積み込め」

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