十六(四)

文字数 1,281文字

 長安から幽州へは、太行(たいこう)山脈の東を北上したので、帰りは運河の「永済(えいさい)(きょ)」の東を南下することにした。あちこち見て回るのは、(そん)逸輝(いつき)の仕事でもあるし、リョウもその道筋には平原(へいげん)郡の街があるので、(がん)真卿(しんけい)とその石工の秀に挨拶したいと思ったのだ。顔真卿は、一年前に、その生真面目さが楊国忠に嫌われて、平原郡の太守に出されていた。太守は七つの県を治める平原郡の役所の長官だが、いずれ宰相さえ担える経歴の顔真卿からみれば、明らかな左遷だった。

 幽州から平原までは八百里(約四百キロ)弱で、リョウと孫逸輝は、馬で七日で着いた。季節は夏の初めで、南下するに従い暑くなってくる。リョウはたちまち幽州の涼しい気候が懐かしくなった。
 平原城は、黄河と永済渠に挟まれた、なだらかな丘陵地帯にあり、太守の屋敷はすぐに見つかった。長安を出るときに手紙で知らせておいたので、二人はすんなりと屋敷に招き入れられた。
「おう、リョウ、良く来たな。そっちは硯師(すずりし)の孫逸輝だな。かねがね名前は聞いている」
 石鑿(いしのみ)を振り上げながら庭の奥から出て来た石工の秀に、孫逸輝が答えた。
「孫逸輝です。顔真卿の石工、秀さんのご高名も聞いています」
「ハハハ、石工に名前などいらないが、ちょうど良いところに来た。新しい石碑を彫り終えたところだ」
 秀の案内でさっそく二人は庭の奥の作業小屋に向かった。そこには、彫りあがったばかりだという石碑が横たえられていた。
「顔公が書丹(しょたん)(石に直接書くこと)し、俺が彫った。『東方朔(とうほうさく)画賛碑(がさんひ)』という。河向こうの東方朔をまつった(びょう)の中に建てるものだ」
「東方朔と言えば、漢の武帝に仕えた政治家だな」
「孫は良く知ってるな。仙人のような容貌だから、長寿のしるしとして好んで絵に描かれる。その絵を賛した西晋時代の石碑があったのだが、顔公が平原太守として赴任したときには、文字も読めないほど風化していた。それで再建することにしたのだ」
 リョウは、その石碑に彫られた字をじっくりと観察した。
「二年前に千福寺で見た石碑とはずいぶん違って、大きな堂々とした字だな」
「あれは枡目状に大量の字を規則正しく書くという制約があったから、緊密だが多少、固かった。それに比べてこの骨太の楷書は、自由な躍動感があり、顔公しか書けない新しい境地だ」
「字もそうだが、秀の石刻の技法も新しさを感じる。太い筆にたっぷり墨を付けてのびのび書いた、そんな筆と墨の量感や濃淡、墨の潤いまで石碑から伝わってくる」
「おっ、ずいぶん()めてくれるな」

 その夜、屋敷の一室で食事をとっていると、別室の顔真卿から、話を聞きたいので来るようにと使いがあった。出かけて行ったリョウは、長い裾に長袖の官服を着て椅子に座った顔真卿が別人のように見えた。長安の屋敷で会った顔真卿は、墨のこぼれが付いた作務衣(さむえ)姿で、「書家」の顔真卿だったが、今は平原太守の顔真卿なのだろう。隣には、一人の若者が座っていた。顔真卿は挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。
「これは従兄の(がん)杲卿(こうけい)の子、(がん)季明(きめい)だ。我が家で預かっている。お前たちは安禄山に会ったと聞いた。幽州の様子を聞かせて欲しい」
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