十(一)

文字数 1,362文字

 リョウを襲った(そう)果映(かえい)が返り討ちにあって死んだことは、(りゅう)涓匡(けんきょう)や「八郭(はっかく)(てい)」に伝わっているだろう。リョウと(こう)憶嶺(おくれい)が親子とは知らなくとも、曽果映の死を逆恨みして仕返しにくる怖れがあった。彼らに不都合な書状の存在も伝わっているかもしれない。リョウは、誰かに見張られているのを感じることもあった。
 しかし、あれから数か月、最近ではその怪しい影も見なくなっていた。リョウは自分の懸念を「鄧龍(とうりゅう)」の(とう)龍恒(りゅうこう)やその子、(とう)龍溱(りゅうしん)に話していたが、夏の暑い日、鄧龍恒がリョウを店に呼んで言った。
「今、朝廷では権力争いが激しくなってきている。おそらく(ちょう)萬英(まんえい)も、昔のアクリイの件など、取るに足らないこととして、捨て置くように言ったのだろう。まずは心配するほどのこともあるまい」
「朝廷の権力争い、というのはどういうことだ?」
「この四月に、()林甫(りんぽ)腰巾着(こしぎんちゃく)と言われた御史(ぎょし)大夫(たいふ)宋渾(そうこん)が、巨万の収賄の罪で、潮陽に流された。それが争いの始まりを天下に知らしめる号砲だった。李林甫の側近を訴えるなど、今までなら誰もできるはずがなかった。しかし、収賄の証拠などいくらでも握っている戸部(こぶ)郎中(ろうちゅう)吉温(きつおん)が、李林甫を裏切って(よう)(しょう)に情報を渡したようだ。李林甫が宋渾をかばえなかったということは、いよいよ楊釗の力が李林甫に並んできたということだ」
「吉温と言えば、もともと趙萬英の子飼いの役人で、李林甫の手先となっていた男だったな」
「そうだ。ということは、趙萬英も李林甫を見限って、楊釗を利用しようとしているのだろう。それを裏付ける話もある。趙萬英が、楊釗の推しで羽立(うりゅう)軍の大将軍に取り立てられた。羽立軍と言えば、宮城北門に駐屯している禁軍(王宮守護の軍)だ。貴族の血を引いているとはいえ、大出世だろう」
「趙萬英は李林甫に引き立てられて、(おう)忠嗣(ちゅうし)将軍の元で万人隊長をしていた男だ。王忠嗣が失脚した後は、代わって隴右(ろうゆう)節度使となった哥舒(かじょ)(かん)の下にいたはずだが」
「趙萬英は、漢人貴族の王忠嗣の下で突厥(とっくつ)と戦うには適任だった。なにせ、大の蕃人(ばんじん)(異民族)嫌いだからな。趙萬英にとって、突騎施(テュルギッシュ)族で于闐(うてん)(コータン)人の母を持つ哥舒翰など、ほんとは虫唾(むしず)が走る存在だろう。李林甫は、今、絶頂期だが、それは、後は下りしかないということで、鼻が利くものは早くも逃げ出して、(よう)(しょう)になびいている、趙萬英もそうだろう。楊釗が陛下に願い出ていた改名の件も、いよいよ八月に『(よう)国忠(こくちゅう)』という、たいそう立派な名前を賜ったということだ」
「李林甫も黙ってはいないだろう」
「李林甫には、哥舒(かじょ)(かん)だけでなく(あん)禄山(ろくざん)もついている。五月には、安禄山に東平郡王の爵を賜った。ソグドと突厥(とっくつ)の血を引く蕃将が王に封じられるなど、かつてなかったことだ。八月には、河北道(かほくどう)采訪(さいほう)処置使(しょちし)も兼任させ、長安の永寧(えいねいい)園に屋敷まで授けられた。軍事司令官である節度使(せつどし)と、地域の民政を司る採訪処置使を兼ねさせたということは、もうその地域の領主のようなものだ」
「なるほど、俺にも構図が見えてきた。宰相になりそうな他の有力貴族に軍事力を持たせたくない李林甫は、辺境に蕃将を配して自分の武力とし、逆に出自の怪しい楊釗は、貴族出身の趙萬英を仲間に引き入れて、格式と武力の両方を補おうということだな」
「どっちの辞令も、言われるままに皇帝が出しているところが、この国の一番根っこにある問題だ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み