十九(一)

文字数 1,343文字

 十二月二十二日の夜、土門関から北に向かうアユンたちと別れた後、リョウは進と共に西にある太原(たいげん)郡の晋陽(しんよう)に向かった。晋陽は長安、洛陽に次ぐ第三の都と言われ、幽州(ゆうしゅう)(北京)と洛陽を結ぶ街道上にあり、古くから交通と軍事の要衝だった。北の遊牧民にとっては中原を攻めるための、漢民族にとっては北からの攻撃を防ぐための拠点になる。晋陽から幽州に向かう山中の隘路(あいろ)が土門関で、安禄山軍にとって、(がん)杲卿(こうけい)の裏切りで土門関を失った痛手は大きいに違いない、とリョウは思った。  
 リョウと進は、晋陽を流れる汾河(ふんが)沿いの街道を南に黄河まで出て、そこからさらに西に向かって長安の北西にある(せき)傳若(でんじゃく)の馬牧場に向かった。幸い通行証はまだ有効だったが、いつ裏切り者として役人に追われるかわからず、リョウは馬を急がせた。
 ソグド商人でありながら、唐軍の軍馬を扱っている石傳若の立場も、ソグド人の血が流れる安禄山の挙兵で微妙になった。しかし、何ごとにもそつのない石傳若は、軍馬を扱う閑厩(かんきゅう)副使の吉温(きつおん)亡きあとも、その後任者とうまく付き合い、依然、この辺り一番の馬商人としての地位を確保していた。その石傳若に土門関でのいきさつを話し、「青海邸」の店長をリョウから他のソグド商人に替え、また、長安を脱出する方法を相談した後、リョウは(てい)愛淑(アスク)を迎えに、進と共に長安に向かった。

 リョウが長安に戻って間もなく、天宝十五載(756年)正月に、安禄山が国号を大燕(だいえん)国と定め、自らを雄武皇帝として洛陽で即位したという話が伝わってきた。しかし安禄山の本隊は、洛陽から長安に向かう道の難所、潼関(どうかん)で苦戦しているという。安禄山の次男、(あん)慶緒(けいしょ)らがさかんに攻撃を仕掛けても、哥舒(かじょ)(かん)の二十万の軍が守る難攻不落の潼関を破ることはついにできずにいた。

 すぐにも長安から逃げなくてはと思ったリョウだったが、不思議なことに、常山でのリョウの行動を(とが)捕縛(ほばく)しようという官吏の動きは全く無かった。何かとリョウの肩を持ってくれる(でん)為行(いこう)に、土門関の情報が届いていないか、五竜朋の仲間に聞いてもらった。そして間もなく、リョウはその理由を知った。
 一つには、「土門関を奪った功労者は晋陽(しんよう)の長官、(おう)承業(しょうぎょう)である」という、リョウが知る事実とは全く異なる報告書が朝廷に上がっていたということ、もう一つには、せっかく奪った土門関は、すぐに安禄山軍に奪い返され、(がん)杲卿(こうけい)は洛陽に連れていかれて処刑されたという、驚くべきものだった。
 そんな状況では、常山と土門関の攻防で、リョウが顔杲卿に逆らってアユンたちを救った話など、長安に届くはずも無かった。唯一心配なのは、その場に居た(そん)逸輝(いつき)が帰還して、(とう)龍恒(りゅうこう)に何と報告するかだった。
 リョウたちに遅れること十日、孫逸輝は、太原経由で無事に帰ってきた。
「本気で殴りやがって、馬鹿野郎、死ぬかと思ったぞ」
 孫逸輝は、リョウだけに聞こえる声でそう言い、周りの人にはリョウと口裏を合わせてくれた。
「安禄山軍に捕まって殺されそうになったが、何とか逃げ出した」
 真相を誰にも口外しない理由を聞いたリョウに、孫逸輝はポツリと答えた。
「お前は、どこか俺に似ているんだ、死ぬにはまだ早い」
 国中を旅して歩く孫逸輝もまた、自由の風を知ってしまった一人なのだろうと、リョウは思った。
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