付録1 その後の安史の乱

文字数 945文字

「石刻師リョウ Ⅲ燎原の火」は、天宝十五載(西暦756年)6月13日未明に皇帝()隆基(りゅうき)(廟号「玄宗」)が楊貴妃らと長安を脱出した「長安炎上」、翌14日夕方に楊国忠が馬嵬(ばかい)吐蕃(とばん)の使節団と会っ後に(ちん)玄礼(げんれい)の兵に殺され、楊貴妃も死を賜った「馬嵬の変」、その数日後に、皇太子()(きょう)(後の第七代皇帝「粛宗」)が、(ちょう)萬英(まんえい)の軍を鳳翔(ほうしょう)で迎え撃った「鳳翔の決戦」で終わっている。
「鳳翔の決戦」は創作上の産物だが、そこに至る安史の乱の経過や、皇帝の都落ちの状況は、想像力を膨らませながらも、ほぼ歴史上伝わっているものと齟齬(そご)が生じないように記述している。では、リョウたちが隊商を組んで西域に向かった後、安史の乱はどのような経過をたどったのだろうか。読者の参考のために、関連する資料からその概況を次に記述することとする。
<756年>
7月 皇太子李亨、霊武に到着、その後皇帝に即位(粛宗)するも玄宗は知らず
河北の戦況は安禄山・史思明軍に有利に展開、李光弼は太原に退き、郭子儀も霊武に引上げ、新皇帝李亭に合流。顔真卿も平原から逃れる。河北は完全に安禄山の勢力下に
<757年>
1月 安禄山、子の安慶緒、厳荘らに暗殺される。安慶緒、即位。史思明は范陽に戻る
2月 粛宗、鳳翔に帰る
5月 安慶緒、長安に迫った唐軍を撃破
9月 唐軍(郭子儀軍)、広平郡王李俶(代宗)を大元帥としウイグルと共に長安を奪い返す
10月 唐軍、洛陽を奪い返す、安慶緒は河北に逃亡するが再度勢力を盛り返す
12月 史思明、安慶緒の裏切りを恐れて唐にいったん帰順、范陽節度使に
<758年>
6月 史思明、唐軍の李光弼が自分の暗殺を謀ったことを知り、再び唐朝より離反し、13万の軍をもって安慶緒を救う
<759年>
1月 史思明、燕王を称す
3月 史思明、安慶緒を殺す
4月 史思明、大燕皇帝に即位
<760年>
3月 史思明 洛陽を奪う
<761年>
3月 史思明の子、史朝義、史思明を殺し皇帝に即位
<762年>
4月 玄宗、粛宗相次いで崩ず 代宗即位
8月 史朝義、ウイグルに援軍要請、ウイグルはいったん応じる
10月 ウイグル、唐に味方しウイグル・唐朝連合軍が洛陽を奪還
<763年>
1月 史朝義自殺。首は長安へ送られ安史の乱終わる

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