十二(四)

文字数 1,267文字

「驚いたろう。だけど、(がん)真卿(しんけい)とは、ああいうお方だ。身分の高い貴族の面を見せることもあれば、書家の顔を見せることもある。朝堂で陛下にさえ厳しいことを直言する頑固な高官であり、地方に左遷されたらその地の自然を愛し、地元の人たちとの詩文の交わりを心から楽しむこともできる。二つの面を持っていながら、両方とも、ほんとうの顔真卿なのだ」
「それにしても、『胡笳(こか)』といえば、ソグド人が吹く葦笛(あしぶえ)のことだろう。胡笳の音は、突厥(とっくつ)でもよく聞いたし、妹も好きだった。どうして、この字を俺に彫らせたのだろう」
「ハッハッハ、お前は知らないのか。詩人の岑参(しんじん)の名前は聞いたことがあるか」
「いや、知らない」
「顔公は、朝廷の内部では出世と降格、地方への左遷と中央政界復帰を繰り返してきた人だ。まじめで融通が利かないから、賄賂が当たり前の役人仲間に友人は少ない。数少ない友の一人が、詩人としても名が売れている岑参(しんじん)だ。歳は岑参の方が七歳若いが、顔公と同じ科挙の進士合格仲間で、しかも共に詩文を語れる仲間だ」
「その詩人が、胡笳を吹くのか?」
「いや、そうではなくて、三年前の秋、顔公が河西(かせい)隴右(ろうゆう)軍に左遷されたとき、岑参(しんじん)が別れの(はなむけ)に詩を贈った。 “君聞かずや胡笳(こか)の声 最も悲しきを 紫髯(しぜん)緑眼(りょくがん)胡人(こじん)吹く”と始まる。別れの哀愁を格調高く歌っていて、長安でも『胡笳(こか)の歌』として評判になったものだ。しかし実は相当に危ない歌だ」
「どういうことだ」
「詩の終わりは、『辺城(へんじょう)夜夜(よよ) 愁夢(しゅうむ)多し 月に向かって胡笳 誰か聞くを喜ばん』となっている。考えても見ろ、『辺境の地では哀しい夢しか見ないし、月下の胡笳など、誰が喜ぶんだ』というのは、辺境には紫髯(しぜん)緑眼(りょくがん)(赤茶色のほおひげと青い眼)の蕃人(ばんじん)(異民族)将軍しかいないことを痛烈に批判しているんだ」
「なるほど、国境地帯の節度使は全部、蕃人になったからな」
「それまでの河西・隴右(ろうゆう)の節度使は(おう)忠嗣(ちゅうし)将軍だ。いわば漢人で貴族出身の武将の代表だ。その王忠嗣が、(あん)禄山(ろくざん)に反乱の恐れありと言って左遷され、顔公が赴任する前年に、河西節度使は(あん)思順(しじゅん)隴右(ろうゆう)節度使は哥舒(かじょ)(かん)に替わったばかりだった。安思順といえば、安禄山の母親が再婚した男の甥、つまり安禄山とは義理の従兄弟(いとこ)だ。そして哥舒翰は、突騎施(テュルギッシュ)の父と宇寘(うてん)(コータン)の母の子だ。どっちも、()林甫(りんぽ)の蕃人登用方針がなければ、絶対に節度使にはなれなかった連中だ」
「俺には、漢人ばかりの世の中の方が、おかしい気がする。唐にはいろいろな民族が住み、民族にかかわらず能力のある者が登用される。それは良いことじゃないのか。俺の父親もソグド商人だった」
 エッ、と驚いた顔で秀はリョウの顔を見た。
「それは気づかなかったが、言われてみれば、多少西域の顔をしているな。他意はない」

 北の守りを固める安禄山は、前年の秋、上京して(けい)の捕虜、八千人を献上したが、今年の夏には契丹(きったん)に手痛い敗北を喫して命からがら逃げかえり、西では、安西四鎮節度使の(こう)仙芝(せんし)がタラス河畔で新興の大食(タジク)(アッバース朝)と闘い大敗を喫したという。リョウは辺境で何かが動き始めている気がした。
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