十七(三)

文字数 1,598文字

 長安の空にも秋風が吹き始めた頃、リョウは久しぶりに、宣陽(せんよう)(ぼう)にある韓国夫人の屋敷にシメンを訪ねた。
 シメンから、イルダと二人で知人の子を預かって育てているから、おもちゃがわりに木彫りの親子の熊を彫ってくれと手紙で頼まれていた。今年の正月に生まれた女の子と聞いた(てい)は、「木彫りの熊さんだけではちょっとかわいそう」と言って、かわいい子供服を作って一緒に持たせてくれた。
「わあ、婷は上手だね、さすがに楊貴妃の織子、どうもありがとう。それにしても、ずいぶん久しぶりね」
「北で安禄山やアユンに会ったり、西の様子も知りたくて隊商に加わって西域に行ったりと、ずっと忙しかった」
「一年ぶりくらいかしら。アユンや皆は元気だった?」
「ああ、そう言えばシメンから預かった真珠の首飾りを渡しておいた。シメンに会えないって泣いてたぞ」
「奥さんも子供もいるのに、何を言っているのかしらね」
 そう言いあって、リョウとシメンは笑った。
「この子の名前は春蘭(しゅんらん)っていうの。去年、妹の秦国(しんこく)夫人を亡くした韓国夫人が、その生まれ変わりだって言って、ものすごくかわいがってくれて、名前も付けてくれたの」
 兄妹二人の会話を、にこにこしながら横で聞いていたイルダが言った。
「春蘭の親はいない。今は、私とシメン、二人の子供。韓国夫人は私たちを応援してくれる」
 リョウは、ここに来る前に、シメンとイルダの関係について考えていた。かつては違和感もあったが、希遠(きえん)和尚(おしょう)の「自分を縛っていたものをみんな無いものとしたとき、何が幸せだろうか」という言葉を思い出すうちに、シメンとイルダが愛し合っていることを、自然に受け止められる気になっていた。
「よし、それなら俺も応援する。うちの愛淑(アスク)がもう少し大きくなったら、一緒に遊ばせよう」

 まもなく木枯らしも吹き始めるかという頃になり、さらに悪いことが起きた。安禄山は皇室の娘の結婚式に呼び出されても、病気を理由に欠席し、長安に近づこうとしなかった。そんな中で、吉温(きつおん)が暗殺されたのだ。楊国忠のために地方に左遷されていた吉温は、安禄山の機嫌を取りたい皇帝の計らいで今年になって御史中丞に復帰した。しかし、長安に戻るのを見計らったように刺客に殺された。用心深い吉温だったが、長安に囲っていた女の屋敷を訪ねた折に、警護の兵もろとも殺されたので、相手は相当に訓練された者だったのだろうと、朱ツェドゥンが教えてくれた。
 表向きは安禄山の腹心であり、内実は(ちょう)萬英(まんえい)用間(ようかん)(スパイ)として働いていた吉温を暗殺したのは、(よう)国忠(こくちゅう)に違いなかった。これで、吉温の安禄山への抑えが効かなくなり、軍馬や兵士の増強に動いていた趙萬英の準備が整う前に、安禄山が兵を動かす恐れが出てきた。
 リョウは、密かに安禄山邸のキョルクと連絡をとり、「長安に(あん)慶宗(けいそう)を人質として置いたまま軽挙妄動するな」という趣旨の手紙を預かって、幽州(ゆうしゅう)の安禄山の元へ行くことにした。何としても、戦の火ぶたが切られるのを未然に防ぎたかった。今回は、途中で何が起こるかわからないので、「青海邸」の男たちから武人としての腕が立つ男を五名選び、進をその隊長にして連れて行くことにした。話を聞いた(そん)逸輝(いつき)も同行したいというので、総勢は八名となった。今回は、リョウも剣と弓矢を馬に付け、飛刀の石鑿(いしのみ)を差した革帯を腰に着けての出発となった。
 幽州に付いたリョウたちは、アユンを誘い、一緒に安禄山の居る雄武城に向かった。城内は何ごともないように落ち着いていた。安禄山の部屋には次男の(あん)慶緒(けいしょ)、漢人官僚の厳荘(げんそう)高尚(こうしょう)突厥(とっくつ)阿史那(あしな)承慶(しょうけい)契丹(きったん)(そん)孝哲(こうてつ)だけがいた。キョルクからの手紙を読んだ安禄山は言った。
「唐の未来は明るいと信じていた。俺のような異民族にも開かれ、商業も活発になり、みんな豊かになる、そう無邪気に信じて戦ってきた。しかし、時代は変わった。俺たちは、何をしても疑われ、言いたいことも言えなくなった」
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