十二(三)

文字数 1,375文字

「今度は、しばらく長安に居られそうですか」
 そう()いたリョウに、石工の秀は、冷たい茶を勧めながら言った。
「そうだと良いんだが。わしも、重い石板を運んで地方と長安を行き来するのは、もう疲れた。だが、なかなかそうはいくまいな」 
 そう言いながら、秀は、前年に(がん)真卿(しんけい)が河南採訪判官に左遷(させん)された事情を教えてくれた。
「去年の四月に、()林甫(りんぽ)に近い御史(ぎょし)大夫(たいふ)(副宰相格の行政官)の宋渾(そうこん)が、収賄の罪で流された。実は、それは李林甫から楊国忠に寝返った戸部(こぶ)郎中(ろうちゅう)(財務官僚)の吉温(きつおん)が仕組んだというのは知っているか」
「ええ、伯父からそんな話を聞いたことがあります」
「うちの顔公ときたら、根っからの正直者で、曲がったものが大嫌いだ。それと、これは大きな声では言えないが、(よう)国忠(こくちゅう)のような素性の怪しい奴を信用していない。それに引き換え、李林甫も宋渾もれっきとした貴族の出で、宋渾などは名宰相と言われた宗璟(そうけい)の子だ。ということで、誰も楊国忠には反対できない中、顔公だけが楊国忠に歯向かって、宋渾を流罪にすることに大反対したのだ」
「その結果が、河南への転出ですか」
「まあ、宮中では様々な勢力がうごめいているんだろう。敵の敵は味方ということで、暮れには侍御史に返り咲いて長安に戻れたし、この春には、兵部員外郎に取り立てられたから、捨てたもんじゃないが」
 そんな話をしていると、四角い顔の大柄な壮年の男が作業小屋に顔を出した。黒っぽい作務衣(さむえ)を着ているが、顔には立派な口髭(くちひげ)顎髭(あごひげ)を生やしていて、貴人のようだった。
「ああ、これは先生。これが、お話ししていた石工です。リョウ、こちらは顔真卿様だ」
 あっと驚き立ち上がるリョウを手で制した顔真卿は、持っていた小ぶりの石板をリョウに手渡した。
「うちの石工が世話になった。しかも、そちは近頃評判の石工だと聞いた。これを彫ってみろ」
 気難しい貴族とばかり思っていた顔真卿が、書の途中だったのだろう、こぼれた墨の付いた作務衣で気さくに話しかけて来るのにリョウは驚いた。今は官僚としての顔真卿ではなく、書家としての顔真卿なのだろうとリョウは考え、自分も書家に対する石工として接することにした。
 受け取った石板には「胡笳(こか)」と朱墨の楷書で書かれている。優しい字だなとリョウは感じた。顔氏の家では秦の時代に発する篆籀(てんちゅう)の古い格式の書体を代々守ってきたと言われている。しかし、今、目の前にある顔真卿の字は、(おう)羲之(ぎし)の字を思わせる簡略字体で、そのくせ線に柔らかさと太さの変化を持たせ、筆の勢いが感じられる、そんな書だった。じっくりとその字を見たリョウは、それが石に彫られたときに見せる陰影の効果を頭の中で描いた。こういう時のリョウには、誰も話しかけられない雰囲気が宿る。もともと今日は石刻の話をしに来たので、リョウは自分の道具を持ってきていた。その石鑿(いしのみ)と金鎚を取り出し、思い描いた字を一気に彫り始めた。字画ごとに彫りの深さ、縁取りの鋭さを慎重に変え、横から縦に曲がる角の墨の重なり具合さえ、石刻で表現していった。いつものように、周りが何も見えなくなり、時間の経過もわからなかった。
「見事だ、さすがに評判の石刻師。書を刻すとはそういうことだな。これから、当家の石工と共に、わしの字を彫れ」
 そう言われて、我に返ったリョウに、顔真卿は「その石板は持っていけ」と言って立ち去った。
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