第36話

文字数 1,298文字

 ナカジマ先生がいるのだから、山口県なのだと思う。
 
 道路の脇まで緑が押し寄せて、道幅が狭くなりかけている。人気(ひとけ)はなく、さびしい。
 私は先に着いていたらしいのだけれど、誰かを駅まで迎えに行く。単線の、どうやら市電の駅だ。
 
 ぶじにその誰かに会えて、二人で市電に乗る。誰。若い男性のようだ。彼をナカジマ先生に紹介しに行くのだ。そう、ピアノの才能があるから。
 
 市電は駅からまっすぐに進み、途中で一度だけ曲がる。九十度でなく七十八度くらいだよね、などと彼が言う。はしゃいでいる。緊張している。
 考えたら、電車はそんな鋭角に曲がれない。
 
 曲がるとき、道路と、平行して流れている川をともに横切る。緑だったはずが、川岸はいちめん白金色のすすきに彩られていて、私たちは歓声をあげる。
 白く穂に出た中にまだ赤みがかった開く前のが半分ほど混じっていて、美しい異国の老婦人の髪のようで、私のいちばん好きな取り合わせだ。
 
 川を渡ると、そこの小さな通りだけがその町の商店街で、とはいえ何か外国風で、ガラスの出窓などある。その出窓のある家がたぶん、ナカジマ先生のお宅だ。
 私たちはいつのまにか市電を降りている。
 
 いつのまにかナカジマ先生のお宅の中にいる。
 先生がいらして、けれども先生ではない。黒髪の豊かにちぢれたのを束ねて肩の横に流している、先生はいつもひっつめたポニーテールだったのに。いま思うと、マルタ・アルゲリッチ女史が混じっていたようだ。
 ひどく待たされたような、そうでもないような気がする。
 
 グランドピアノに向かって、彼が何か弾き、もう一人の女性が何か弾く。この女性がわからない。先生ご自身か、他に誰かいたのか、私なのか。
 先生は哀しそうな顔をして、私たちは帰らされる。
 若者は落胆している。
 
 私がきゅうに熱弁をふるい出す。そうじゃない。あなた(若者)に才能がないと思われたのではない。その逆よ。あなたが弾き始めた瞬間の、先生の顔を見ていなかった? かすかに目をつむって、首をふって。あなたをこの草深い町で指導するなんてできないと思ったのよ。かといって、あなたを育て上げて、ご自分もその指導者として世に打って出ようという方ではない。この近所のお年寄りやら、先生のレッスンを楽しみにしている人たちを、彼女は捨てられない。
 
 若者の顔は明るくなっていくのだけど、彼をこの先どうしたらいいのか、もう私にも思いつかない。
 
 若者はとほうにくれて立ち尽くし、ガラスの出窓を見上げている。不安で、私の手を握りたそうにしている。私もそうしたいけれど、それが正しいことなのかわからない。
 
 私はこの若者でもある。もし、中学二年のとき、先生がお母さまの介護のためにご実家の山口県に帰ってしまわれなければ。もし、別の先生のもとでも、私が音高音大をめざしていれば。なにがしかの者になれたのだろうか。なれなかっただろうか。
 私のまなざしは先生のまなざしでもある。この若者の将来にかかわる時間は、たぶん私には残されていない。だから哀しい顔になる。
 それとも、残されているのか。
 
 中島紀美子先生が亡くなって、もう七年になる。

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