第160話 (終)

文字数 521文字

 もう一つは、高瀬舟の夢だ。

 私は若い男の人足で、小舟に乗せられて運ばれていく。
 壮年の侍が棹をつかっていて、こちらも私だ。

 川面に光が、無数の鏡のかけらのように反射する。

 それとも、海なのだった。
 私たちは――それぞれが私である私たちは――すでに海へ出ていて、はてしなく浅い温かな水の上を、棹のみをたよりに静かに進んでいく。

 誰かが泣いている。
 人足の私と侍の私の、どちらでもない。
 私は、罪を犯し、この世では許されることのないその罪のために、遠島(えんとう)という名のあの世へ送られていくのだけれど、
 その景色はまるごと透明な球のなかにすっぽりとおさまり、つまりはスノードームのようなのだ。

 ただ、スノードームとちがって、球のなかに雪は舞わず、ひたすら穏やかに、輝いて、温かく、小舟は先へと進んでいく。
 そしてその透明な球のおもてをつたって、誰かの涙が流れ落ちていく。
 誰かが泣いている。

 それも私だ。
 おそらくは、罪を犯す前の。

 罪人である人足の私は、黙って、そのすべてに感謝している。
 自分には見えない天球の外を、見えない涙がいま、とめどなく流れる。
 ふりあおぐと、棹をさす侍の編笠のうちが蔭になっている。

 夕刻であるらしい。



―夢百夜 巻三 完―

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