第80話

文字数 470文字

 母が病室に泊まって実家と行き来し、私が実家に泊まって病室と行き来していたとき、父が、母のつくった料理を食べたかと私に訊いた。
 食べたよ、と言うと、うまかったかと訊く。
 おいしかったよ、と言うと、父、ひじょうに喜ぶ。
 それはよかった、と言う。

「おれも早く帰って、スミコの料理が食べたいなあ」

「ここ(病院)もね、わるくはないんだよ。とてもよくしてもらっている。
 でも、やっぱり家とは、ちがうからなあ」
 にこにこしている。

 父本人の前で泣かないようにするのが、難しい。

 廊下へ出て、窓から見上げると、大きなとんぼが一匹、コンクリートの壁の前で迷っていた。
 そのうち、壁沿いに上へあがることを思いついたらしく、あがっていって、壁を乗り越える、そのへりのところでとまった。
 そのまま透明な羽をひろげて、休んでいる。

 あのとんぼが飛び立てれば、父は助かると思った。
 そして、あのとんぼが飛び立っても飛び立たなくても、どう考えても、
 父が助かるはずはないのにと思った。

 とんぼは、飛び立たなかった。

 でも、しばらくしてもう一度見たら、いなくなっていた。

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