第98話

文字数 711文字

 ある人の、あまりに貴くて名前を出せない人の、見舞いに来ている。

 野戦病院のような部屋も廊下もない建物で、おそらくもともとは修道院、異国の。
 簡易ベッドがそこここに並び、けれども白い土壁が涼しく、清潔で、居心地はいい。

 その人が、眠っているように見えたのに、ふいに優しい声で、私にあることを命じる。
 二度命じる。
 あまりに思いがけないので、耳を疑う。

 彼がもうファスナーを下ろし始めているので、私は動転して、隣に父がいますと言って押しとどめる。一間(いっけん)ほど先に父が寝ている。いや、起きて簡易ベッドに腰かけ、ネクタイを締めているところだ。
 息をひそめてじっとしていると、空気がひんやりと甘く、粉っぽい。

 私は意を決して、おそるおそる手をのばしてふれる。
 ひじょうに大きくて硬く、熱い。

 とたんに、そういうことではないんです、と叱られる。激しく叱られる。私は驚いて手を引きながら、それならさっきの誘いは何だったのだろうととほうにくれる。
 簡易ベッドは低く、彼は大きな枕に頭をもたせかけ、まだ若くて、きれいなときの姿をしている。その姿勢でこんなことを訊かれる。
 初めてお会いしたとき、どんなお話をしたか、覚えていますか?
 私は少し考えて、おそるおそる答える。
 おたがいに、思いやりを持って、ということでしたでしょうか?

 その人が、力強くうなずく。

 そうか、と私は思う。そうだったのか。私は、愛されていたんだ。

 どうしようもない安らかさと、哀しみが、ひんやりと甘い空気そのものとなって土壁づたいにひろがり、二度と会えないその人の大きな白い枕のすみに、私は、頭をもたせかける。

 背後の父が動きだす気配はないので、時が止まっているらしい。

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