第82話

文字数 655文字

 父が、はっきりした声で、くりかえし、しつこく、
 疲れただろうから、家へ帰って休め、
 と、母と私に言う。

 そのうち、きゅうに自分の腕をかざして、しげしげとながめ出した。

 どうしたの、と母が訊くと、私の目を見て、
「熱い、おしぼりを、もらってきてくれ」
と言う。
 拭きたいの、と母が訊くと、うなずく。

 母と目をあわせて、一瞬とほうにくれた。
 看護師さんたちにはもう、さんざん迷惑をかけている。

 母がとっさに、これじゃだめかしら、と言って、部屋にあるペーパータオルのおしぼりのビニール袋を破る。
 父はそれを受けとって、自分で拭き、また母にも拭いてもらって、両の腕と手の指まで拭き終えると、満足そうにしている。
 もういいの、と母が訊くと、うなずく。
 母ともう一度目をあわせて、とほうにくれる。

 父の腕も手も、何も、やせて、骨と皮だけになっている。
 点滴などの痕がもうなおらず、黒くなっている。
 強くこすると皮膚が破れてしまいそうだ。

 部屋を出るとき、何度も、父と手を合わせた。
 一度、驚くほどしっかりした力で、私の指を握りかえしてきた。
 そして、大きな、抑揚のない声で、
「バイバイ」
と言った。

 父らしくないので驚く。とっさに
「いってきます」
と返した。
 それがいいような気がして、おどけて、いってきまーす、すぐ帰ってくるからねと手をふった。

 最後に見た父は、微笑んでいた。

 熱いおしぼりをもらってきてあげればよかった。なぜもらってきてあげなかったのだろう。
 わかっている。
 湯灌(ゆかん)みたいで、いやだったのだ。

 湯灌だったのに。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み