第66話

文字数 1,210文字

 おそらく大正か、昭和のはじめ。
 そまつな木造の駅舎、つまらないみやげ屋を兼ねた平屋の隣に、これもそまつな離れがあって、間借りしている。
 私たち、親子三人。たぶん、真澄さんと、私と、小さな子ども。
 三人とも和服。

 ぐるりに植え込みなどあって、砂地の道が続いている。
 本当に駅舎なのか。

 突然どやどやと人声がして、夫である人は追われて外から飛びこんでくる。なぜおれが、と叫びながら、植え込みの内側にそって走っている。
 着流しがほどけて胸元のネルシャツと脚があらわになっている。
 追っ手はおおぜいいるのだけれど、生け垣をとり囲むだけで入ってはこない。

 私はおろおろと子どもを抱いて縁先に立っていたはずが、
 ふと屋根上から見下ろしているかのように皆が小さく眼下に見える。

 線路が複数走っていて、

 きれいな大きな洋犬が飼い主の女の人の叫ぶのも聞かずに走ってきて、おもちゃのような列車に脚を()かれる。
 女の人も脚を轢かれる。血は出ない。
 列車は行ってしまう。

 われに返るとその女の人が、なぜこうなったかをけんめいに説明している。
 そのワンちゃんは前にけがをして、それがやっと治って退院してこの駅まで来たのに、飼い主さんがほんの一瞬手を放したすきに駆け出して、体は大きくてもまだ子どもだから嬉しくて駆け出して、轢かれてしまったのだ。

 私たちが犬と飼い主の手当てにかかりきりになっているうちに、
 夫の真澄さんを追ってきた秘密警察みたいなうろんな男たちは、どこかへ行ってしまっている。

 みやげ屋にいろいろと迷惑をかけたので、お礼とお詫びを兼ねて何か買おうと思うけれど、置いてある物がまあ何とも、いちばんましな夫婦湯呑みさえひどくまずい出来で、買いたくない。
 三組あって、どれも緑色の油粘土をこねてそのまま焼いたようなしろものでひどい。たぶん、知り合いの人が趣味でひねったのなんかを置かされているのだ。
 このみやげ屋さんが気の毒になる。
 なるけれども、買わない。

 そんなこんなしてるうちに、いつのまにか私が追われる夫その人になっていて、
 鳥打ち帽を指でかるく押し下げながら、離れにいるよ、と店番する主人に洒脱な感じで言ってみた。
 ところが、声も体も女のままで、がっかり。
 ここは真澄さんの声と体であってほしかったなあと自分で思う。

 離れに上がると、めいめい箱膳を並べて妻と幼い娘が待っている。
 ということはやはり私は夫のほうで、心もとない。
 いま真澄さんが奥さんのほうの体に入っているなら、早く入れ替わって、もとに戻ってほしいのです。

 玉砂利を敷きつめた中庭に飛び石。いよいよ駅舎らしくはないのだけれど、縁先に風鈴の気配もあって、女の子はおとなしく喜んでいる。
 私は夫として縁先に立っていたつもりが、

 いまはその立つ彼を正座して見上げているので、
 ああ、もとに戻った、とわかって、ほっとする。

 彼が手をかけている鴨居が、黒く(かげ)って見えた。

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