第156話

文字数 1,009文字

 ここのところ、あまり夢を見ない。

 じつは今年、二〇二〇年の二月から突然、()ぜるように小説を書き始めた。
 不思議なことに、小説を書いているあいだは、ほとんど夢を見ない。

 たいてい、それは静かに、ふいに始まる。
 誰かが私の中で語りだすのだ。
 痛いです、とか。わたしのこと話しましょうか、とか。
 彼女たちが聞いてほしそうだったので、私は聞いて、書きとめていった。ひたすら。
 口述筆記だ。

 私の中で「わたし」と言いはじめる人につられて、他の人たちもやってくる。彼らも、てんでんばらばらに語りだす。
 小説として書きとめているぶんの何割増しかの分量の台詞が、私の中で響きつづける。彼らの流す涙が私の目から流れ、彼らの笑いを私は、夜中の台所でひとり、笑う。不気味に聞こえるけれどしかたない。本当だから。
 寝ても覚めても、彼らが自分の中でしゃべっている状態で、苦しい。いや、気もちは楽しいのだけど、物理的に苦しい。
 眠れないのだ。

 眠っているあいだも私の脳の中で脳細胞どうしが、ちかちかと、ピーコックブルーに光る電気信号を送りあっている。
 そんなイメージに支配されながら眠れるわけがない。
 昼夜逆転はふつうになった。最近は週末になると、三、四時間眠っては五、六時間起き、それから二十時間眠り、十時間起きなどということをやっている。そうなるともはや何曜日なのかわからないし、自分が誰だかもわからない。
 三人目にやってきた声は言った――助けてください、誰か。
 私は、彼を、助けられるのだろうか。

 助けられたのだろうか。
 数日前に、本編の最後の一行を書き終え、昨日、スピンオフ三編の最後の一行を書き終えた。
 彼らが、出ていく気配がする。
 文字どおり、そう、私が現実の人生でやってきたように、荷物をまとめ、床を掃き、空になった部屋に感謝の目を投げて、しずかに退室していく気配がするのだ。

 旅の終わりと引っ越しがつねにそうであるように、私はほっとしつつ、さびしい。

 ありがとう、と声をかける。彼らの後ろ姿に。
 ありがとう。
 外国を幾度か旅して、思った。これだけは知っておくといいという語が二つある。
「ありがとう」と「さようなら」だ。
 ありがとう。さようなら。

 空き家になった私は、しばらくさびしい。
 いままでは登場人物たちがいなくなると、また夢を見るようになっていたのだけど、来年はどうなるだろう。

 もう、あまり夢は見なくなりそうな気がする。

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