第141話

文字数 785文字

「アヤちゃんが子どものとき、お手洗いに閉じこめられちゃったことがあったのよね」
と母が笑う。(現実)
「自分で中から鍵が開けられなくなっちゃって、泣き叫んで。
 それで、シュンさん(弟の名)が窓から入っていって、開けてあげたのよね」

 おさない頃の弟の、数ある武勇譚のひとつだ。
 まだ幼稚園児だった彼は、母と祖母と姉の窮状を見かね、「ぼくが行く」と言って、果敢にもベランダ側の大人の頭の高さほどもある高い窓から(抱きあげて押しこんでもらって)突入し、みごと鍵を開けてくれたのだ。ブラボー。
 しかもその成功に気を良くした彼は、開いたドアからふつうに出て来ずに、もう一度高い窓までよじのぼってベランダへ帰還しようとし、大騒ぎになった。
 なつかしい、たのしい思い出話だ。

 でもね。
 母の記憶はまちがっている。

 いくら私がばかでも、小学生だ。
 園児の弟に開けられる鍵が、中から開けられないはずはない。

「ちがうよ」
と弟が訂正してくれた。
「姉さんがトイレから出たとき、鍵が半分下りかけていて、ドアを閉じたらガチャンと中で鍵が下りて、誰も入れなくなっちゃったんだよ。おれは、その鍵を開けただけ」

 そう。そのとおり。トイレの鍵が中で閉まってしまっただけだ。
 私が泣いたのは、高い窓から入って開けてこいと言われて、それが怖くてできなかっただけだ。

 それなのに母は、私が自分自身をロックインして泣き叫んだと言って、ゆずらない。

 母は八十を過ぎたけれど、いまでも背はまっすぐで、ほっそりして、少女のようだ。
 家の中もつねに完璧に片づいている。父が十四年前に車を買ったときの領収書がとってあって、あれはどこかな、となると、すぐに出せる人なのだ。

 だから、
 母の、私に関する記憶だけが、いろいろとすり替わっている、などと言っても、
 誰にも信じてもらえない。

 とほうにくれて弟を見ると、黙って目をそらした。

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