第146話

文字数 1,127文字

『フォスフォレッスセンス』という、太宰治の短編が好きだ。
 編集者に口述筆記させて、ほぼそのまま入稿したという、奇跡の一作だ。

「私は、この社会と、全く切りはなされた別の世界で生きている数時間を持っている。
 それは、私の眠っている間の数時間である」

「私にはこの世の中の、どこにもいない親友がいる。しかもその親友は生きている。また私には、この世のどこにもいない妻がいる。しかもその妻は、言葉も肉体も持って、生きている。
 私は眼が覚めて、顔を洗いながら、その妻の匂いを身近に感ずる事が出来る。そうして、夜寝る時には、またその妻に逢える楽しい期待を持っているのである。
『しばらく逢わなかったけど、どうしたの?』
『桜桃を取りに行っていたの。』
『冬でも桜桃があるの?』
『スウィス。』
『そう。』
 食慾も、またあの性慾とやらも、何も無い涼しい恋の会話が続いて、夢で、以前に何度も見た事のある、しかし、地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原に私たち夫婦は寝ころぶ。
『くやしいでしょうね。』
『馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。』
 私は涙を流す。
 そのとき、眼が覚める。私は涙を流している。眠りの中の夢と、現実がつながっている。気持がそのまま、つながっている」

「考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである」

「たとえば、或る夜、こんなことがあった。(中略)
 やはり、あの湖のほとりの草原に寝ころんでいたのであるが、私は寝ころびながら涙を流した。
 すると、鳥が一羽飛んで来た。その鳥は、蝙蝠(こうもり)に似ていたが、片方の翼の長さだけでも三(メートル)ちかく、そうして、その翼をすこしも動かさず、グライダのように音も無く私たちの上、二(メートル)くらい上を、すれすれに飛んで行って、そのとき、(からす)の鳴くような声でこう言った。
『ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。』」

 この後、物語は、はっとするような怪奇譚へと続いていき、フォスフォレッスセンスという謎めいた題名の訳も明かされるのだけれど、
 もう、ここまでで、私はいい。じゅうぶんだ。

 ――ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。

 この一行が、私を、玉川上水に落ちていくことから踏みとどまらせる。
 この一行のおかげで、私は、濡れた青草の上に足を踏みこたえている。

 これが、作家の仕事というものだと思う。
 太宰さん、ありがとう。

「『さようなら。』
 と現実の世界で別れる。
 夢でまた逢う」

「『綺麗な花だなあ。なんて花でしょう。』
 『Phosphorescence』」


※「フォスフォレッスセンス phosphorescence」は「燐光」のことで、そんな名前の花は実在しないそうです。

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