ミラート年代記3 シルマオの聖水  ラルフ・イーザウ/酒寄進一(訳)

文字数 3,402文字

 国に戻ったエルギルは、母ヴァーニアが異空間で死に瀕していることを知る。母を癒す命の水を求め、エルギルと旅の仲間たちはふたたび出発する。一方ムーリアとドルムントが留守を守るソーデルブルク城は、隣国の裏切りによる壮絶な戦いにさらされていた。エルギルは「命の水」を手に入れることができるのか?ソーデルブルク城の運命は?決戦のときは刻々と迫っていた。


(「あすなろ書房」より)

http://www.asunaroshobo.co.jp/home/series/mirad/index.html

3巻にわたるこの分厚いシリーズも、ついに完結!
面白かった。しかし、長かった……。読み終えるまでに何か月かけたかな?
続けてすぐに読まない圭さんにも問題はあるんだけどね?
読みたい本がいっぱいあるから、1つのシリーズにのめり込んでしまわないようにセーブしているんだよ。
言われてみると、最近は本の選び方が変わった。
? そうか?
昔は、1つの本を読むとその作家の既刊本を総ざらいしていたような気がする。
古本屋で集められる範囲において、という限定付きだけど、そうだったかもなあ。
最近は1冊読んでも、すぐに別の作家に移っていくよね。

まあ、本の楽しみ方は年齢を重ねるごとに変わっていくものだし。

あ、でもぼくはたぶん、『ネシャン・サーガ』はいずれ読んでみるつもり、ではあるよ。

姉妹本、という扱いなんだっけ?
ほぼ関連はないっぽいけど。
……そういうところ、圭さんの創作の仕方と似ているなと思う。
ん? ……そうかな?
圭さんの創作もストーリーがまるっきり無関係でもどこかで小さく何かが重なるように作り込んであるから。

奏光のバルカロール(旧題『鴻荒のバルカロール』)の未来が『DEUS EX MACHINA』だったりするのも、『おかしな神社の不思議な巫女たち(旧題『ぼくが召喚したバーチャルな巫女たち』)の北辰神社の答えが『魔眼の射手(スナイパー)』の中にあったりするのも、そういうことでしょ。


それに、今回の3巻にもあった、これ。

平和は一致団結を前提とする。だがそれは一様であることとはちがう。多様なものが共にいてはじめて、この世界は彩り豊かになる。
訳者があとがきでも引用している箇所だけど、これって圭さんが作品で描きたい主張、要するにどうして圭さんが小説を描くのかの理由に近いなと思って。


清濁あるから美しい、という圭さんの主張は、『バルカロール』の中ではエリアナ様が、『DEUS』の中ではとある娼婦が代弁してる。

基本路線は、そうだね。

そしてなぜ我々が争い、反発しあうことを止められないのか、という問いに対しては君が『バルカロール』の中で、紅蓮羽(くれは)が『神社』の中でしっかりと答えを出してくれた。


創作については常にノープロットで出たとこ勝負なのに、ぼくの子供(キャラクター)たちはきちんと作者の主張を汲んでくれるいい子たちで驚くよ。

それは、あまりに圭さんが創作においてだらしなさすぎる反動、なのでは?
ええ?!
だって、ぼくらが自立的にきちんとストーリーを進めないと、どんどん脇道にそれていっちゃうじゃない。
それを言われるとぐうの音も出ない。
まあ、圭さんの創作のことはともあれ。
うん、それこそわきに置いておいて……。
「多様性の許容」ってずいぶん久しく叫ばれているのに、なかなか世界は多様化してこないよね。

現代社会は建前として「多様化」を許容しているけど、個々の人の生まれ育った環境や価値観なんかが結局は偏見を生まずにはいられないんだよ。


人は人、自分は自分、という考え方に至ってしまえば物事のほぼすべてにおいてある程度の線引きができるはずなんだが、どうしてだかぼくら人間には自分と同じ感性・感覚・感動を相手も持っていないと許せない・安心できない、という部分があるんだね。

人間の理性って、成長していないのかな?

核の部分は有史以前から変わってはいないんだろう。それを「社会性の発達」で補ってきたのが人間の歴史なのだとぼくは思ってる。

だから、国連が採択する人権がらみの宣言は読むほどに興味深さを覚える。

未来のこともあるし、ぼくは子供の人権についてはずっと注目している。

詳しくは外務省が出してる「児童の権利に関する条約」と、その一連の日本の取り組みを読んでみたらいいとは思うけど、子供がもつ権利の内容についてはユニセフが「子どもの権利条約」というページできれいにまとめてくれていて、わかりやすい。

「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」……これって、読めば読むほど当たり前のことに思えるんだけど?
その「当たり前」が当たり前のように守られてこなかったからこそ、明文化されているんだと思いなよ。
明文化することによって「見える化」したってことね?
そうだね。そんなこんなで『ミラート年代記』の最終巻でも、大枠としてもう一つ注目すべき、そして引用しておきたい箇所がここに出てくる。
エルギルは、理性のある生き物が自由な意思を持つだけでは足りないと思っていた。それが使える、つまり善悪を自分で判断しうる世界がのぞましい。この戦争を生きのびたら、そういう世界を作りたい。
「地球」に近づいていくんだなって、思った。
まあ、その地球だってまだまだ道半ばなんだってことは忘れちゃいけないけどね。
思い出すと、ミラートの世界は“天上の光の君”によって創造された「地球」……をモデルにメレヒ=アレスが作った何個目か世界なので、地球に近づいていくのはある意味予想通りなのかもしれない。
メレヒ=アレスがとんでもない失敗作を作ってくれたおかげで「さすがにまずい」と“天上の光の君”がわずかに介入している点がポイント高いとぼくは思うが(笑)
この世界は、結局のところ“天上の光の君”の恩恵によって守られている部分が大きい。
シリリムの通力しかり。
そうえいば2巻でジャッザル=ファジームが復活したし、トウィクスいなくても3巻は余裕でしょう……なんて思っていたのに、全然余裕がなかったね。
というより、ファジームって本当に強いんだろうか?

ファジームのみならず、シリリム全体に「それほどでも感」があったかも……(汗

まあ、一度は滅ぼされているんだから、無敵じゃないのはわかっているつもりだったんだけど……(笑)

エルギルとトウィクスが規格外すぎるなんて、ぼくは知らなかったぞ?
彼らが強すぎる、ということはもう少ししっかり記述しておいてほしかった。
記述が足りないなあ、という意味では癇癪玉の不発感もそうなんだよな。
その行動、本当に癇癪玉のせいなの? と、思わなくもなかったよね。
癇癪玉をもう少し効果的に使うには、たぶん、エルギルの普段の性格のことを2巻までにもっともっと書いておくべきだったんだ。そういう意味ではトウィクスが邪魔で、もしかしたら彼は1巻で死んでおくべきだったのかもしれない。
いや、それはそれで……ニシコとの関係をどうするの? になるよ?
そのスサン王国に関してはさあ、近衛隊長の名前がコーイチなことにどうにか突っ込めないかとウズウズしている。
あの国、コーイチ以外にも日本人っぽい名前が多い気がした。
しかし、大君にマザールとルビを振るあたりはユダヤ圏がモデルにも見えるし、非常に微妙。
雰囲気的にはアラビアっぽくもあるんだよね。
あるある。
あと難しかったのは、ラストの防城戦。ボルク大公はどこで戦って死んだんだろう?
あそこは、本気で図解が欲しい。エルギルがファジームとローエンの力を借りて敵を生き埋めにした範囲なんかも、ぼくの想像では追いつかない。
ってか、ボルク大公は死ぬ必要があったのかな?
……こだわるね?
だって、好きだったんだもん!
そ、そうか。
まあ、死んじゃったものは仕方ないんだけど……。
実際、防城チームにおいて一番活躍したのはボルスト卿なんだろうよ。
序盤のトルバスがお約束のように陳腐なフラグを立ててくれたから、「寝返るの? 寝返らないの?」にドキドキした。

そして、冒険チームでの活躍は鉤鼻ハルコン。

むしろ彼こそが3巻の主役と言っても過言ではないほどの珍活躍。
Sansanの「それ、早く言ってよ~!」が脳内で何度こだましたか! そのたびに笑い転げた。
あれは、ずるい!
まあ、最後はハッピーエンドで大団円。すっきり終わってくれてほっとなった。

次はネシャンの世界を楽しむとしよう。

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