廃用身 久坂部羊
文字数 3,325文字
(「幻冬舎」より)
だってプロでない人間だからこそ、これだけの言いたい放題ができるんだもん。この美味しいポジションを手放したくはない。
野党が外野で好き勝手、そして無責任に騒ぐのと基本は同じだよ。
と、読者に思わせる壮大なトリック小説だったのではないかという気がしてならない、これは。
ぼくら読者は騙されたのではないか?
しかし、それで「回復の見込みがない手足」を「廃用身」と命名するものだろうか。妙に乱暴な言葉だとは思わないか?
ぼくはね、瞬間的に差別的だと感じてしまった。作中でも直後に「非人間的な用語」と補足がついている。
そんなわけで作品に対するぼくの違和感はここに始まり、すぐにググってしまったんだ。
そんなこんなでぼくは疑問に思っているんだよ。「廃用身」というのは本当に「れっきとした医学用語」なのかどうか。
ちなみに「廃用症候群」についても調べてみた。
つまりはこの段階で、読者は作者の仕掛けたトリックにハマりこんでしまうというわけだ。
中身をもう少し見てみようか。
「廃用身」となった四肢を切断することによって、日常生活動作(ADL)の改善、介護の軽減、生活の質(QOL)の向上を目指したひとりの医師の話で、表向きに問いかけられているのは高齢化社会と深刻な介護事情の問題だといえる。
うーん、そこが、わからない。わからないからこそぼくは悩んでしまった。
作中にあるいくつかの指摘
・麻痺部位の冷えへの悩み
・意志通りに動かないくせに、意志に反して勝手に動くわずらわしさ
・「廃用身」にばかり意識がいってしまって、鬱症状を引き起こす弊害
など、「廃用身」を切除することで「廃用身」のことをもう考えなくなり、「正常」な部位でできることを前向きに目がいくようになるという主人公の考え方は、
「正しいのでは?」
と思わせる説得力がある。
気付かないか? この段階で見えるのは
・「廃用身」の切断がいかに良いものかを論理展開した主人公およびその擁護者と、
・グロテスクだ、残酷だ、とヒステリックに叫んで面白おかしく記事に書き立てたマスメディア、
という対立の構図なんだが、肝心の視点が1つ抜けている。
公正中立の第三者的な視点、とでもいったらいいのだろうか。
「医学の発展」と「倫理」というのは相反するものとして対立しがちではあるのだが、それ以前の問題として、その「医学」の中での検証・議論は十分になされたかどうかの視点はどこに消えたのか。
「廃用身」切除のメリットは主人公が説明した、では、「廃用身」切除のデメリットは?
誰も説明してくれていない。
手術時の体の負担については主人公が触れるが、それだけだ。本当にデメリットはそれだけなのか?
そもそも主人公の理論には説得力がありすぎて、かえって怪しいとぼくは思うんだよ。
それに「廃用身」というイカニモな言葉を使うことによって読者には「切る」ことへの抵抗感が削がれた気がしてならないんだ。これこそが作者の仕掛けた罠ではないのか。
こういうことが起こるとさ、だいたいは「どこそこの第一人者」みたいな権威ある人が訳知り顔で出てきて専門的な見解を述べるじゃないか。
得てしてそれらのその意見は世論の感情に迎合しがちだけど、医学的に●●だからダメだ、と説明する人間が現れてしかるべきところ、この作品ではそこが省かれる。
結果、切除は悪いことではないのにマスメディアが古臭い倫理観で正義を踏みつぶそうとしている、という方向に読者は誘導されていく。
昨今、マスメディアを悪と徹底的に断じる風潮があるだろう? それらの風潮に染まった人たちがこれを読んだらどう思うだろうね?
そして切除の是非を問われたら?
ぼくはこれ、いくらなんでもフェアではないと思っている。
いろんな角度から光を当てて、その度に人物像がひっくり返っていくのがこの作品の主の部分だよ。
実際に、人間には善人も悪人もいないんだ。どこに光を当てるか、誰の目で見るかで見え方は大きく変わる。一つの結論には当てはまらないということをこの作品は描いているんだね。
そして、最後の判断は読者の気持ち次第。