余話 長崎街道 小竹のバラのジャーマンベーカリー

文字数 1,952文字

 折尾駅近くの、細くて古い道に興味を持ったのは、今年の春先頃であった。街道というものに、はっきりとした意識も、深い興味を持つ段階でもなかった。
趣味の散歩の続きで、「バラの花のきれいな所を見てみたい」と妻が言う。自宅の駐車場の端に、畳一枚ほどの花壇があり、季節の花を買ってきては植え替える。通りがかりの人は花を愛でてくれるのも楽しいようだ。ゴールデンウイークの時期がバラの出番だ。バラ愛好家は、このひと時の為に手塩にかけてかわいがる。
 遠賀川流域は広々とし、トビも飛んでおり気持ちがいい。長崎街道である遠賀川の西側沿の堤防を飯塚方面に向かい車を走らせる。JR小竹駅を過ぎた所に、横看板で「ジャーマンベーカリ」とローマ字で書いた洋菓子店がある。エクレアが美味しいと評判だ。「甘いものも食べてみたい」というので、立ち寄ってエクレアを買った。店の駐車場に駐めた車の中で食べながら、何気なく外を眺めた。「ちょっといつもと雰囲気が違うな」、と感じた。目につくのは、入り口のガラス戸を通し、洋菓子ショウケース。右に視線を移すと、横広がりの建物全体が、緑の館になっている。濃い緑葉が壁の前面を覆いつくし、心安らぐ気がする。あたかも誘引したバラの緑葉が大きな女性の衣裳のようである。蕾が開花し真っ赤なバラ、ピンクや白もあり、緑を補強して目を引き付けている。それが地面から二階の屋根近くまで広がっているのだ。
 伸びた枝を壁にピンで止め、何年もかけ二階まで誘引している。地植えではない。大きな鉢に根が植えられている。百近い鉢植えが、地味に居並んでいる。
 今日は、五月初めの日曜日。「何万本のバラ。真っ赤な、真っ赤なバラの花」大勢の美人がコーラスを奏でているような優雅な眺めである。「素晴らしい、こんな大きなバラの花たちを、私は見たことがない」、と感嘆し、二人で賞賛の言葉を発した。植物園ならあるかもしれないが、民家の壁に二階まで巨大なバラの花ビラが飾られている。妖精のように、「今が一番きれいな私。どうぞゆっくり眺めていってください」とでも囁くようである。
 「建物と、このバラたちを水彩で描けたら、素晴らしいだろうね」と妻は、下車し、バラに近寄り、あるいは車道の向こうへ行き、デジカメのシャターを切りまくった。勢ぞろいした鉢植えのバラは、様々な種類で艶やかさは限りない。黄バラの匂いを嗅ぐと、紳士が貴婦人に捧げる上品な甘い香りだ。
 バラと壁の間に、隠れるようにパイプの足場が組んである。二階まで誘引や手入れはこれを使うのだ。こんなに見事な拡がりを演出しているバラ。どんな花好きのお方が育てているのだろうか、逢って話を聞いてみたい。
 洋菓子店に戻り、「この見事なバラの園は、どなたが世話をされているのですか」、と店員に尋ねた。「店のオーナーがバラの花が好きで、熱心に世話をされています。今は店にはいませんが」という。「不在とは残念」と、店を出て再び壁面を私は見た。すると、音も無く裏の勝手口の戸が開いた。藍染めの服に白い前掛け姿の小柄な老婦人が顔を出した。店員から、お客が、バラの事を聞きたがっていると連絡したのだろうかと思った。
 「素晴らしいバラを仕立てられているのですね」と私は話し掛けた。ニコッとし話始めた。
「娘は、バラが命なのですよ」という。「え!」、この大きなバラを育てるのに、命をかける。物語があるのだろう。
 「こんなにたくさんの鉢植えバラを、足場まで組んで高い壁を這わせます。見ていてはらはらします。洋菓子製造が終わると、バラのために全ての時間を費やすのです。五月中旬、艶やかな花は終わり、花びらが散り去ります」、と心配そうに老母は話続けます。大勢の客がバラの花を観賞し、感嘆されていきます。娘さんはバラの化身なのだろうか。
 「鮮やかな花の盛りが過ぎ、館が緑葉だけになった時、娘の大仕事が始まります。何十個もあるすべての鉢を一個一個ずつ裏返し、土を取り出します。根をほぐし、新鮮な空気が取り込めるよう、新たな土や肥料を混ぜ交換するのです」。一人で長時間、根気よく、自分の時間のすべてを、バラにささげる様子を、複雑な気持ちで老母は見守っているのだろう。
 「足場に乗り剪定や手直しをします。世界中のバラをネット注文し、植えるのが、娘の夢のようです」と化身となったバラ娘の気持ちを、愛情を込めて代弁する。
 病害虫に対する薬の散布や、状態の観察や水遣り、手入れは大変なことだろう。「命を懸けている娘」さんは、どんな方なのだろう。いつか逢ってみたい。
 長崎街道の木屋瀬宿と飯塚宿のあいだにある小竹で「バラ命の娘さん」の素敵な話しを老婦人から聞くことが出来た。見事なバラの風情、幸せな出会いを神様から頂戴したひと時だった。
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