第9話2 木屋瀬宿の村庄屋と松崎宿の庄屋

文字数 1,129文字

 江戸時代の経済体制はどうなっていたのだろう。宿場では多くの商売の店がある。現在のように貨幣で遣り取りしていたのだろうか。江戸時代は米が経済の基盤で石高で各藩の規模を表わす。例えば1万石の松崎藩だと御原地区の田圃から収穫できる米を1万石毎年、藩の米倉へ運ばれ保管されたのだろうか。ネットを見ると、庄屋が村ごとにいて村請制といい、年貢米や村の土地管理や水利などの管理全般を藩主から請負っていたらしい。
 疑問を解明するため早速、木屋瀬宿の村庄屋松尾家を訪ねた。90歳のご婦人が対応してくれた。昔、田圃を30町歩も所有していた豪農だったようだ。村人から米を預かり藩へ送る仕事をしていた。村役の打ち合せは、隣の家で行い、両替商もやっていたといい、貨幣を取り扱っていたのだろう。主人でないと詳しくは分からない。ご主人は92歳になり体調を壊し入院中という。「申し訳ありません。宜しくお伝えください」と言い辞した。
 その後、松崎宿のある小郡市の埋蔵文化財調査センター へ電話した。専門家から詳しく説明して頂いた。「松崎藩の1万石とは領内の生産高の見なしの石高である。領主が全部持っている量ではなく、処分できるものではない。年貢米は農民が収穫した米の内、藩と幕府へ納める米の割合である。大体は収穫高の半分か4割位である。自作農の収穫米の半分は農家の取り分になる。だが小作農が多く、自作農者から田を借り小作料分の米を払う。収穫米の25%位が小作農の取り分となる」と言う。小作が小さい農家は稗や粟を食べるのは、それだけ取り分が少ないからだなのだろう。
 農地は幕府の所有かと思っていたが、土地はもともと農民が所有していた。秀吉検地で田畑を測量して、幕府に納める年貢米を決めていたことになる。自作農の豪農は裕福な暮らしをてしていた事だろう。
 「松崎藩は下岩田や稲吉など10箇村を治めていた。宿場である松崎村は商人が多く、武士である町役人が、年貢を銭で徴収していた。農民は物々交換が主であった。村に庄屋がおり、全部の村をまとめる大庄屋がいた」という。これが経済体勢の基盤だったと言うことが漸く分かった。
 「藩では銅銭が流通していた。大判や小判は高額であまり使われない。商都である大阪は銀の貨幣で取引がされていた。松崎宿に鶴小屋があるが、昔は旅館だった。その後、ハゼ蝋の問屋となった。筑後の蝋は品質が良いので高値で取引された。筑後川で大川に下り、有明海で大きな船で大阪まで運ばれた」という。
 ロウソクの原料となる蝋、その原木ハゼノキを久留米藩では栽培を奨励していた。
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