第53話 岡山瀬戸の安禅寺住職

文字数 969文字

   江戸時代の山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から赤間関(下関市)に至る道とし
て整備された。幕府は、江戸発の五街道を重点に整備した。延長線上に山陽道は脇往還
に位置付けられた。街道は、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。
 岡山赤磐市瀬戸に安禅寺という臨済宗妙心寺派のお寺がある。瀬戸駅から6キロ離れた
山際にある。元は岡山藩主池田候の一つの禅寺だったが太平洋戦争の空襲で寺が焼けて
しまった。昭和47年、瀬戸町に移転し、本堂だけ建てられた。
 現在の住職は当時、久留米梅林寺で雲水として修行していた。3年間、厳しい修業道場
で過ごさなければ僧侶に成れない。師匠は京都の妙心寺管長にもなった東海大光老師である。
 雲水の睡眠時間は1日4時間である。老師が檀家の家で飲食し、雲水の安禅はお供で帰っ
てきた。夜12時を過ぎていた。退出しようとすると「まだ儂が新聞を読んでいる」と放し
れない。老師は出された酒を断らない程強い。「早く寝てくれよ」と安禅は思ったが「俺の
根性を試すためにやっているのだ」と悟った。老師の持っていた新聞は逆さまだった。
 老師の出した公案が解けず「こんな事が分からないのかバカ」と厳しく叱責する。「クソ
爺い」と思い障子に石を投げてやろうと何度思ったことか。
 雲水は修行の為、1日2食、飯に汁に煮野菜だけ。12月は蝋八という1週間寝ないで軒
先で座禅する厳しい修行がある。艱難辛苦に耐えた安禅は強力な根性と体力を得た。
 修行後、岡山の安禅寺に行くことになった。 池田藩の菩提寺国清寺の華山恵光師匠が隠
居で2年程おられた所である。「あの寺は、田舎で檀家は少なく、食えないかもしれない
ぞ」と言われる。老師は「世の中は動くからな」と送る言葉をくれた。
 安禅寺は檀家が30軒だけ。生活の為「月に一度、お経を上げさせて下さい」と檀家に頼
み、半分が了解してくれた。「お金もなく、食えず、托鉢に出て食い繋いだ」どん底生活だ。
 山を切り開き、野菜を植え凌いだ。並大抵の苦労ではなかった。しかし師匠の「世の中は
動くからな」という言葉を信じ、行動した。地元の人々に徐々に新参者を受け入れてくれた。
今では、新しい住居もでき、僧堂も整備できた。
 「新たな縁を大事にし、寺を盛り上げることが出来嬉しい」と語る68歳の安禅寺住職は
慈愛と自信にあふれていた。
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