第42話 本物の永昌宿 長崎街道

文字数 848文字

翌日、諫早駅のシンホテルの朝食は1階のシアトルで食べた。サンドイッチにコーヒは、朝食券でミルクは別料金。このシステムも面白い。通勤前の勤め人も何人もいた。ホテルの精算をした後、線路の向こうに歩いて、福田医院の方へ行った。医院の前に、長崎街道、庄屋跡の看板があった。先の信号は永昌町と表示されている。この前後の600メートルが宿場だと、ネットには書いてあった。JR長崎線の下に地下道がある。周辺の宿場の建物は壊されたのだろう。地下を歩いて行くと、魚屋があり尋ねると。「道路の向いに諫早神社があり、昔のことが書いてある」と教えてくれた。本明川があり、浅い流れの中に、飛び石が見えた。諫早神社は九州の総鎮守といわれ、歴史がある。御朱印の種類が何十種類もあった。収益の一環であろう。巫女さんが地図を出し、永昌町信号の先に、宿場跡の石碑とか追分石、多良街道と長崎街道の分岐点となると説明してくれた。そういえば、長崎街道の塩田宿から分岐して、浜宿ー多良宿ー湯江宿ー永昌宿へ続いていた。巫女さんの持っていた多良海道の地図は、多良で会った製作者の物と同じ物だった。これが的確な説明だった。車で走ると長崎街道の看板が目についた。車を永昌公民館に止め館長に宿場の件を尋ねた。事務所へ上がらせてもらい、地図の上で説明を聞いた。言われた階段を下りた所に、車道があり、歩道上の看板に、地図と追分石の所在も書いてあった。今来た階段を上った所に追分があるという。上に登って行くも、雨は降るし、道は二手に分かれ、場所が分からない。近くの家で呼び鈴を押すと、老夫婦が出てきて、説明をしてくれた。「私の隣の家は目明しだったとお婆さんに聞いた」という。「宿場であり、役人としてこの場所は重要だった」という。「長崎街道で、山道だったが、近年、車の道路を作るため山を切り通した」。自動車道路ではなく山道が横切っていたという。現地の人にここが宿場だとを教えてもらわないと分からない。大村宿から五里のこの地へ来て宿泊していたという事だった。
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