第9話 牛津宿 牛津駅陶板の宿場図 長崎街道 

文字数 897文字

 長崎街道の小倉から佐賀宿までは、陸路や山を辿り行く感じである。しかし牛津宿からは川と海とが密接に関わるような気がした。
長崎本線牛津駅は赤煉瓦風の外壁で、正面には宿場情景を描いた大きな組み陶板が飾ってある。街道の家並を象やキャピタンの行進駕籠舁き、飯屋等の様子は何処も同じである。
 絵の上段に鉢巻き褌姿の男が川舟から米俵を担ぎ川岸に卸し、侍が俵数を調べている。今ま
でに見た事のない図柄であり、この川湊はどんな有様だったのか好奇心が沸いた。
 街道筋で掃除していた婦人に尋ねると「裏に牛津川があり、江戸時代は百石船が着き、積荷を
卸した。なまこ壁の土蔵に収め、その後、各宿場へ配送していたみたい」と言う。
 更に進むと砥石橋があり、傍に本流から支流へ通じる大水門3基が構築されている。下を覗くと、本流と支流との水面差は3mもある。支流は駅方面へ流れ、その両岸が土場と言われていた。作業服の若者は「昔は洪水が頻繁にあったと年寄が語るのを聴きます。水門が出来、被害も少なくなったみたい。大昔は、海がこの傍まで来ていたといいます。」と気さくに語ってくれた。小城支藩の米、佐賀の物資を扱う問屋が集まり、有明海からも牛津川を遡る舟で運ばれていた。
 私の地元の遠賀川は昔、石炭を舟が上流から流れに乗り港まで運ぶ。帰りは櫓漕ぎ昇って行く
のが常識。「江戸時代に有明海から荷を牛津川上流へ運ぶ?どうなっているの」。
塩田や北方宿で、古老の話を聞いて仕組みが分かった。有明海の干満の潮の高さは6mで日本
一なのだ。満潮になると有明海の海水が怒涛の如く上流に遡って行く。逆流を利用上流の川湊に
重量物を運ぶ事が常態化した。水と海水の汽水域は16㎞位あり牛津駅の先まで海水が上がっ
て来るというのだった。
「牛津の皆さんには日常茶飯でしようが、私は漸く納得出来ました」という事になる。
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