第99話 倉敷代官所  山陽街道

文字数 782文字

かつて岡山に住んでいたことがあり、倉敷には何度もきたことがあった。倉敷川の両サイドに白壁の町屋が並び、大原美術館は有名で、棟方志向の版画を所蔵展示していた。倉敷市民会館があり、クラッシックコンサートもあり観賞に行ったことがある。旅館くらしきで義母を招待し、宿泊夕食を共にしたことがあった。その頃は両サイドの白壁家屋が土産物屋となっていた。今回、アイビースクエアに宿泊する手配を連れがしてくれた。40年前倉敷紡績の80周年記念行事で、工場跡を記念館やホテル、レストランとし、環境を整備したという。その後、土産物屋
が次々と路地に開店し、電柱も地下に埋め、観光地として、地域全体が美観地区としれ整備された。昔の下町を想像させるような町づくりが行われ。食べ物やお土産屋、美術館、考古館、アイビースクエア―、割烹旅館、川船運行など盛りだくさんの観光目玉がある。楽しい地域である。
倉敷の紡績記念館の向いに代官所跡地と標識あった。概ね、次のようなことが書いてある。倉敷は、徳川幕府の天領として、年貢米の保管倉庫の白壁が立ち並び、倉敷川から米を積み瀬戸内海から大阪へ運んだ。関が原戦後、宇喜多氏旧領の内備前、美作を与えられた小早川秀秋では不穏な動きを止め切れないと、倉敷は天領として残った。瀬戸内海は内海でシケが少なく昔から、海運が盛んだった。独特の気象の、べた凪=無風が起りやすく帆走ができなくなり、港で風待ちをした。沿岸の主要港湾は航路の重要拠点であり、こうした場所を外様大名に押さえられないよう海路の宿駅として天領化された。江戸幕府での正式名は御料・御領だった。代官所、支配所の呼び名もある。倉敷が何故、川の両側に白壁でなまこ壁の土蔵が並んでいたのか、ようやく理解出来た。今までは観光地としてだけ「情緒のある街並みだ」とみていたが、歴史が脈々続き存在していたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み