第11話 直方藩は昔、存在した 長崎街道

文字数 852文字

 福岡藩は黒田長政が初代藩主である。長男が生まれれば藩主を継ぐ。藩存続の為、2男が
生まれれば、支藩を作る。幕府に申請し、認可されなければならない。幕府はすべての藩主
の男子家族を把握する。幕府に人事管理組織が作り上げられ、継嗣がない場合はお家断絶。
大勢の専属の役人がいただろう。毛筆で和紙に書き、上役に報告し、将軍の決済を得て、
藩主へ連絡する。そんな記録を調べるのも面白そうである。
 直方は黒田藩の領地である。藩主の流れは次のとおりである。
 初代・高政は、1623年黒田長政(初代)の死後、福岡藩より4万石を分けられ東蓮寺藩
を立藩した。東蓮寺陣屋は、1625年黒田高政によって築かれた。
 二代・之勝は、忠之(福岡藩2代)の次男で高政の養子となり跡を継いだ。
 三代・長寛は、光之(福岡藩3代)の三男である。1675年、長寛の時代に東蓮寺藩を直
方と改称、直方藩館を建て、武家屋敷と宿場を作った。1677年、長寛は実父の後継となった
ため直方藩を福岡藩に返還した。長寛は福岡藩4代藩主・綱政となった。
 四代・長清は、光之(福岡藩3代)の四男である。1688年、福岡藩より5万石を分知され
再び直方藩が成立した。長清の嫡子・長好は、福岡藩5代藩主・宣政に子がなく養嗣子となり
福岡藩6代藩主・継高となった。1720年に長清が没し、長好の他に子が無かったため直方藩は
廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。
 世継ぎが居なくて、直方藩は4代で潰れた。昔、長崎街道は遠賀川の東側を通っていた。
支藩や宿場は西側にあった。廃藩により直方が街道から外れると、宿場の商売の街並みが
寂れていく。地元は、長崎街道を東側から遠賀川を渡って、西側の元支藩の宿場を通るよう、
黒田藩主を通じ幕府へ申請した。幕府は役人の書類で将軍の認可を得たのだろう。
 長崎街道は変更され木屋瀬宿から直方を通り飯塚宿へ行くようになった。明治以降、直方
は炭鉱で栄え元宿場が大きなまちへと発展していった
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