第27話 塩田津 旧下村家 長崎街道 

文字数 952文字

 嬉野庁舎は塩田にあり、塩田津という名前で元宿場の町並みを伝統的建造物保存地区とし整備している。明治時代、塩田川沿いの街道の道幅を広げる為、すべての町家を曳家した。当時の経済状況の要請でなされたものだが、現在は車が往来できる道路になり、宿場を彷彿とさせる眺めとなっている。
 有田の焼き物の原料となる陶石を天草島から木造船で有明海の満潮に乗って塩田川経由で運んでくる。川港は江戸時代から盛んに行われていた。街道沿いに旧下村家住宅が保存されている。
 隣の交流集会所で、宿場を研究しガイドをしている工業高校の元教師に出会った。「旧下村家の土間に明治初期の港の作業風景の写真があります」と言う。「川辺に土場がありそこで積み荷を降ろし、荷扱い業の旧下村家の土間を通り玄関から街道へ送りをしていたのです」。
 私はこの写真を見たかった。牛津駅の外壁に掲示してある宿場絵に川から米俵を担ぎ荷下ろしする姿を見て「下流から上流へ米俵をどんな方法で川を昇って行くのか?」不思議に思った。「有明海の満潮と干潮の高さは6mと日本一でして、逆流する高潮に乗って木造船が陶石を運ぶ仕組みです」と説明された。「感動の納得であります」と思った。
 今の時間は干潮で川の底に置いてある飛び石で対岸に渡れる。満潮時には深さ3m位になるのだろう。石垣の広場が組んであり、そこで陶石を下ろしたという。写真には両天秤のモッコに陶石を乗せ人が担ぎ運ぶ姿がある。「行き来する船に他の物資も乗せ、塩田川港は大層な賑わいの町並でした」。
 「1750年代に街道の木造の家々が10年ごとに大火災が起きていたそうです。火にも水にも強い漆喰造りの「居倉家」という町家を考えられ、独特の家並みが出来たそうです」「工夫もあり、屋根裏に延焼防ぐため壁と軒下に顎のように漆喰をぬり喉口を作ったのです」ガイドも工学教師らしく専門的な説明をする。「建築の際、道路の直線から少し斜めに家は建てた。敵が来襲しても遠くからは見えない家の角に隠れ、近づけば敵を突き刺す」という考慮された家造りらしい。
 陶石加工や有明海の干満差の利用など他の宿場と違った持ち味のあるユニークな町並みである。
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